電話の向こうの相手は、とても疲れた声をしていた。



 長いこと放っておかれた恨みを、はぐらかされた約束への憤まんを、ようやく繋がった回線に勢いづいてぶちまけようとして――出鼻をくじかれた。
 こめかみを指で押さえて、目を伏せる。
 決してクリアとは言えない、電波状況の悪い携帯から、ほんの少しでも相手の状況を掴みとるためには集中しなくてはならない。
「もしかして寝てない?」
『ああ』
「どのくらい寝てないんスか?」
『ああ。……三日くらい』
 隠そうともせず、躊躇いなく正直に答えるあたり、かなりキていると考えたほうがよさそうだった。
 なんだかもう腹が立つというより、電話の向こうの相手のようすがただひたすら可哀相に思えて。
 諭すように語りかける。
「先輩さあ、ソレ悪いこと言わないからちょっと寝たほうがいいよゼッタイ」
『ああ』
「声死んでるもん。ホントにだいじょうぶ?」
『ああ』
 答える声には、やはり生気がない。
 その時、携帯の向こうで誰かが三上を呼ぶ声が遠く聞こえた。
『わり。もう行かないと』
「明日の晩行きますよ?」
 早口で言う。電話を切ってしまいそうな相手に、縋るような気持ちになった。
「部屋にいてよね?」
『……ああ、わかった。いるよ』
 そこでブツリと切れた。

 いるよ。

 最後のその一言が、切羽詰った状況だろうに、妙にやさしげな声音で。
 電話の向こうの疲れ切った三上がその時だけ笑みを浮かべていたような気がして。
 携帯を閉じて、せつない気分で溜息をひとつ、ついた。







たいせつなひと
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 予告どおり次の晩、三上の部屋のあるマンションの前にやってきた。
 建物を見上げると、目当ての部屋の明かりは果たしてついていた。
 ホッとする。
 どこかで、また「帰れなくなった」という事態を想定していた自分がいたから。

 オレも可哀想だよ。すっかり悲観的になっちゃって。

 自嘲してエレベータへと乗り込む。
 悪い気分ではなかった。部屋の明かりがそのまま心を灯したような、安心感があった。



 インターホンを押すと、すぐに三上は出てきた。
 ドア口に立った自分の姿をどこか呆然とした表情で数秒見つめると、ぐいと手首を掴んで中に引っ張り込み、すごい勢いでドアを閉めた。
 まるで不意打ちを食らったかのような三上の反応に、内心で首を傾げる。

 行くよ、って言ったのに忘れてたのかな?

 自分のそれが勘違いだというのは、数秒後にわかることになる。
 玄関先で、いきなり抱き締められたのだ。
 コートはおろか、靴すらまだ脱いでいない。だが、そんなことはおかまいなしに抱きついてくる存在に、眩暈を覚えそうになる。
 肩に額をぶつけ、その両手で囲った自分の背中を三上はひどく感慨深げに触れてくる。
 そしてあろうことか、こんな呟きを漏らした。
「触りたかった……」
 三上にしてはストレートな物言いにどう反応していいかわからず、戸惑う。
「あの、とりあえず部屋に入りたいんスけど……それから続きしません?」
 そんな冴えない台詞しか口をついて出なかったが、三上は不問に付してくれた。



 部屋の中はいつもより生活の匂いがしなかった。散らかってはいないが、どこか荒れたような印象がある。部屋の主が長らく空けたためだろう。三上もきっと、今さっき帰ってきたばかりなのに違いなかった。
 数日ぶりに明かりが灯って。
 人が息をして。
 なんだか部屋もうれしそうだと思った。
「やっと休めるんだ?」
 明るい声で聞いたら、三上の返事はなかった。
 そのしばしの沈黙で悟ってしまった。
「いや」
 三上は顔をそむけるように斜めに俯いて。
「また終電で出てく」
 思わず眉根が寄ってしまう。俯いたままの三上の肩や首筋は、あきらかに疲れの色を見せているのに。
「ここには風呂入りに帰ってきたようなもんだから」
 言われてみれば、見下ろした髪がまだ少し湿り気を帯びている。手を梳き入れると、三上の身体がわずかに震えた。
「……それと、お前に会いに」
 三上は驚くくらい素直だった。
 でも言い換えれば、それだけ時間のない証とも言えた。
 いつものように互いの距離をはかり、じわじわと間合いを詰めていくような回りくどい会話を二人で楽しむ余裕もない。
 どこか気まずい空気を取りなすように三上が言った。
「メシ食ってきたか。まだならなんか作るけど?」
「いや、いいッス。それより先輩」
 あっさりと断って、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「先輩、オレが電話してから……あれからぜんぜん寝てないんでしょう?」
「仮眠はした」
「いつ?何時間くらい?」
 三上が小さく溜め息をついた。
「そんなのいちいち覚えてねえって。まあ、待ち時間とか利用して、適当に」
「誤魔化さないでくださ」
「まあちょっと黙れよ藤代君」
 からかうような言葉とともに、下から掬うようにキスされる。
 互いに目は閉じないまま、だから三上の瞳が笑っているのがわかった。
 普段の三上なら、こんな誘うような真似はしない。されたことがない。
 相応の欲を感じているときしか、三上から動くようなことはないのだ。
 腰に手を回して抱き寄せる。ほとんど反射といってもよかった。
 応えるように三上も身体を寄せてくる。
 そうして、角度を変えて何度か口付けたあと、どちらからともなく離れ、その瞬間、視線の先に三上の濡れた唇を目にして、思わず、ぎゅっと目を瞑った。

 したい。でも寝かせてやりたい。

 こんなに本気で悩んだのは初めてだ。今までなら間違いなく前者の欲望を優先させていた。
 大人になって分別がつくというのは、こういうことか。
 いや。
 チガウ。
 ただ、目の前のこの相手が。
 
「先輩、寝てください」
「………」
「少しでも眠って」

 大切なんだ。


 三上は疲れている。
 仮眠なんか嘘で、本当に三日間一睡もしてないんじゃなかろうか。
 こんな状態の三上に、何かできるはずもなかった。
 しかも相手はまた仕事に出かけてゆくというのだ。
 引き止められないのはこれまでの経験で嫌というほどわかっている。
 ならば、せめて。

「なーんで。やりにきたんだろ?そのくらいの時間はある」
 茶化す三上に、唐突に腹が立った。
 抱き締めた身体を強引に持ち上げて浮かせる。
 爪先立ちになった三上はびっくりしたみたいだ。
「っと、おい……!」
 抱えた身体をベッドに向けて。文字通り、押し倒す形になった。
 三上の黒髪がシーツに散らばる。
 離れている間、幾度か思い描いた光景だ。それが今、現実のものとして目の前にある。

 したい。このまま、雪崩れ込みたい。理性と欲望の闘いだ。くそ。

 それでも身体を離して、三上の背の下敷きになっていた掛け布団を乱暴に引きずりだして、その身体にかける。
「おい、藤代」
「………」
 無言でテレビを消して、部屋の明かりも落とす。
「……帰んのか?」
 ぽつんと響く三上の声に、なぜだか身を切られるような心地がした。
「帰りませんよ。ここにいます」
 言って、いつもの定位置に座り込む。ベッド横の床に直接、脚を投げ出して。三上に背を向けてベッドにもたれかかる。
「起きるまでここにいて、ちゃんと見送ってあげます。だから」
 寝てください、と言う前に、三上のはっきりした声が返ってきた。
「このまま寝れねえって。期待して帰ってきたのに」

 期待。

 頭を後ろから殴られたような気分になる。反則だ。今日に限ってそんなこと言うなんて。
「お前は違うのか?」
 真摯な声だった。

 違うわけがない。

 ぎゅっと拳を握り締めた。
 すでに半分くらい流されてかけている己を知る。
 この人が本気で誘って、それに抗える自分ではないのだ。この数週間、どんな気分で過ごしてきたと……。
「なあ、しよう。やろうぜ。触れ。俺に触れよ」
 聞いてんのかバカ、とベッドから脚を出してきて肩を小突かれる。足癖の悪いヒト。
 溜め息をついた。布団から飛び出た素足を掴む。三上が笑った気配がした。
「……もっと色気のある誘い方してくださいよ」



 手がのばされる。薄明かりの中で、コドモみたいに満足そうな笑みを浮かべて、それから次の瞬間、反転するみたいに大人の表情になった。
 疲労の影が、かえって艶を思わせた。いつもより研ぎ澄まされた印象の輪郭。意図的なものなのかどうかはわからない、誘うように小さく開いた薄い唇、濡れた瞳。
 ベッドに乗り上げ、そんな三上を見下ろす姿勢になる。手首を掴み、シーツに押しつけて。胸が高鳴った。
 でも、その前に真面目な顔で宣言しておいた。
「一回したら寝ること」
「わあかったよ。お前が理性的なこと言ってるとおかしな感じだな」
「どういう意味ですか」
 苦笑した三上の、その白い喉元に唇を寄せて吸う。小さな喘ぎが上がった。
「お前はなんか外の匂いがすんな」
 目を眇めてそんなことを言う。どこか昔を懐かしむような顔をしていた。
「アンタが建物の中に篭りすぎなんだよ」
「かもな……」
 弱く呟いた三上の口を塞いで、舌を絡めた。三上の身体から力が抜けてゆく。熱く、適度な重みのあるその塊を腕に抱いて、貪るようにキスを続けた。






 宣言などしなくとも、三上の体力の方で限界だった。
 達したあと、急速に襲ってきたらしい眠気に必死に耐えるよう三上は言う。
「十一時になったら起こせ……」
「うん。ちゃんと起こしてあげますよ。だから安心して眠って」
「頼む…」
 すぐに寝息が聞こえてきた。
 いっしょに寝入ってしまうわけにはいかないので、ベッドを出ようかとも思ったが、離れ難く、やはり腕にその身体を抱いていた。
 すぐ近くで寝顔をまじまじと見つめる。寝顔はいつもあどけなかった。
「結局やっちゃったよ……」
 短いが濃密な時間だった。
 今また思い出すだけで体温が上がってしまいそうなほどの。
「反則だよなあ」
 これでまた自分は相手の虜となって、今度はせつない気分でその背中を送り出さねばならないのだ。
「恨みますよ?」








 かわいいかわいいオレの大切なヒト。


 どうかあんまり無理しないでね。















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