俺はお前の理性など愛していないし欲してもいない。















すべてを溶かしてゆく。
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 上りの最終電車の車内は人もまばらだった。

 少しでも睡眠をとるべきかと俺は目を瞑る。
 それでなくとも車内の白々しい明かりは眩しく、その刺激は寝不足の身にはつらすぎた。
 だが、目を閉じても、頭が冴えてしまっているせいか、うつらうつらとするばかりで深い眠りは訪れない。もっとも、訪れていただいても困るのだが。終点まで行って折り返している時間はなかった。
 閉じた瞼の裏に今あった出来事が甦るように、頭の中にちらちらと映像が揺れる。
 夢なのにやけにリアル感があった。
 脳の記憶より身体が覚えているようだった。あちらこちらに留め置かれた彼の残滓を。
 少なくとも公共の場で見るような夢ではないな、と意識の片隅で思いながら俺はシートに身を預け、電車に揺られた。







 実に二十日ぶりの逢瀬だった。


 玄関先に立つ彼の姿を目にした瞬間、懐かしさといとおしさでどうにかなりそうだった。
 百年も会っていなかった気分だ。なるほど感情が昂ぶると大袈裟な物言いもすらすらと浮かんでくる。
 矢も楯も堪らず、中に引き入れて抱きしめた。

「触りたかった……」

 不用意に本音を漏らしてしまって一瞬身体を強張らせた俺だったが、抱きしめた腕の中の身体のほうが、よりずっと硬直してしまっていることに気づいて、おかしくなった。こっそり笑うと余裕が出てきた。
 自分が相手のペースを崩していると感じるのは愉快なものだ。相手が彼ならば、なおさら。

 ああ、でも、本当に触りたかった。

 自分と同じように半ば屍と化した同僚、冷徹な指令ばかり下し生き血が通っていないのかとさえ思える幹部、飽くなき要求をつきつけてくる怪物のようなクライアント。
 そんなものばかりと接してきた自分に、彼の存在は生者の眩しさで溢れている。
 伝わってくる体温が。耳元に触れる吐息が。
 すべてを溶かしてゆく。



「あの、とりあえず部屋に入りたいんスけど……それから続きしません?」
「そうだな」
 あまり時間はないのだし。
 彼を解放して、部屋の中へと招き入れる。
 その背中を眺めやりながら、自分が欲情していることに俺は気づいていた。
「やっと休めるんだ?」
 振り向いた彼の無邪気な笑顔に、己の浅ましさを少し恥じ、視線をそらす。
「いや、終電で出てく。ここには風呂入りに帰ってきたようなもんだから。……それと、お前に会いに」
 終わりの一言に彼が驚く気配が伝わってきて、実にいたたまれない。
 自分の欲を透かし見られているようだ。
「メシ食ってきたか。まだならなんか作るけど?」
 誤魔化すような台詞は「いや、いいッス」と彼に一蹴された。
 それからは、延々と尋問まがいの健康調査だ。
 彼が真剣に自分の身を心配してくれているのは痛いほどにわかる。
 わかるが、それならもっと自分が欲しているものを与えてくれたっていいじゃないか。
 身勝手な理屈でイラついた俺は、彼を挑発した。


 しかし、彼は手強かった。


 ベッドに押し倒してまでおきながら、彼はそのまま寝ろと言う。
 そうして本人はベッドの横にもたれかかって座り、まるで触れてくる意思はないようだった。
 そのくせ犬がおあずけをくってるみたいな情けない顔をして。
 冗談じゃない。なんのために帰ってきたと思っているのだ。
 俺は忠犬に守られて、ただ眠るためだけにここへ帰ってきたわけじゃない。


「なあ、しよう。やろうぜ。触れ。俺に触れよ。聞いてんのかバカ」
 率直な気持ちを告げて、最後は自棄気味に喚いてみせた。
 もしそれでも彼がそこを動かないつもりなら、逆にこちらから押し倒してその腹に跨り乗ってやろうとまで考えた。


 俺はお前の理性など愛していないし欲してもいないんだ。


 わかれ、藤代。




「……もっと色気のある誘い方してくださいよ」

 幾分まだ迷いの残る表情で彼がベッドに乗り上げてきた時は、しめたと思った。
 もう浅ましいなどとは言っていられない。
 自分が毒婦にでもなったような気になりながら、今この状況を存分に味わいつくす。笑みが漏れる。ああ、だってずっと欲しかった。手首を掴む力強さ。全身で求められるこの感じ。

 抱き合った彼からは日向と芝の匂いがした。

 見上げた表情にもう迷いはなく、彼が自分に集中しているのがわかる。たまらなかった。獰猛とも取れる真剣な眼差しに少しの怯えを感じながら、それすら心地いい。すべてを彼に預けてしまう。
 始めてしまえば無駄口を叩き合う間もなかった。
 無言で行為に没頭する。
 彼は飢えた獣のようだったし、自分もそうだったろう。
 限られた時間でお互いを馬鹿みたいに求め合って果てた。







 車内アナウンスが降車駅を告げる。
 俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 白々しい車内は変わることなく、窓の外には闇に沈んだオフィス街だ。たまに現れる明かりがついたままのビルのフロアが景色の端を流れてゆく。今から自分もそこへ。


 起こされてシャワーを浴びて着替えたら、もう出る時間だった。
 結局ろくな別れの挨拶もかわさずに出てきてしまっていた。
 去り際、思い出したように彼の頬に口付けをひとつ。
 彼は複雑な表情をしていた。
 どこの新婚かと思えるようなことを。
 平然とやってみせる自分に呆れ疲れていた顔だった。

 甘すぎる儀式。
 普段しないようなことを連続して披露してしまったせいか、終始、彼はぎくしゃくとしていた。
 今それを微笑ましく思い出す。




 なんだか彼は変わったかも、しれない。
 そして自分も変わったのだろう。



 それらの変化がこの先、互いの関係にどんな影響をもたらすのか今は想像もつかなかったが、ただ今は漸く手に入れた充足感を胸に抱え込むよう大切に反芻しながら、俺は電車を降りた。














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