会 い た い よ
----------------------------------








 三上は、我が目を疑った。


 時刻は午後八時。
 そろそろビル正面ロビーのシャッターが降りる頃合で、その前に残業食を買い出しに行くのがここのところの三上の習慣だ。
 ちょうど残業第一波終了組が退社する時間帯でもあり、エレベーターの中にも、また一階受付ロビーにもそれなりに人がいる。このビルには似たような系列の数社がテナントとして入っていた。三上の勤める会社もその中のひとつである。

「今日も遅くまで?」
 別の部署の女子社員とエレベーターで乗り合わせて話し掛けられた。
「そう。今週末がヤマってとこ」
「三上くん、がんばるねえ」
 ムリしないようにね、お疲れ、お決まりのやりとりを交わして別れる。
 見送る彼女の後ろ姿はどことなく楽しげに見えた。おそらく遊びの約束でも入っているのだろう。なんといっても金曜の夜だ。今からだって十分間に合う。
 明日も明後日も出社が確定している三上にはまるで遠い世界の出来事だ。

(ああ、クソ。たりーな) 
 首の後ろに手をやってさすりながら、三上は正面入り口に向かって歩いていた。自社ビルならば時間に限らず裏の通用口を使うのだが、ここでは皆、出社退社時以外は正面の入り口を使用する。他社の人間や、その客先相手も出入りするので、見知らぬ顔も多い。
 その中で、何気なく三上はロビーの真ん中に目をやり――歩みを止めた。


 見慣れたビルのロビー。
 いつものようにスーツ姿の人間が忙しなく行き来する中に、彼がいた。
 堂々と、ど真ん中に立ち、両手をジーンズのポケットに突っ込んで、物珍しそうにあたりをキョロキョロ見回している。
 そこには、遠慮も引け目も感じられない。
 時折ちらりと向けられる異端者に対する視線にも物怖じするようすはなく、あくまで彼は自然体だった。
 そして、呆然と立ち尽くす三上を見つけた彼は人懐こい笑みを浮かべて走り寄ってこようとした。
 が、それより早く、三上は自分の方から彼につかつかと歩み寄ると、その腕を掴む。 
「……ちょっと来い……ッ!」
 低く押し殺した声で三上はそれだけ言うと、掴んだ彼の腕を引っ張り、引きずるようにしてエレベーターに乗り込んだ。


□□□


 オフィスビルの地下駐車場。
 場所柄ゆえ人の気配はないが、それでも不意に誰かがやってくる可能性は十二分にあり、三上は落ち着かなかった。
 外に連れ出せばよかったと後悔したが、何しろさっきは人の目があって自分も慌てていたのだ。
 ラフな服装で背の高い男がオフィスビルのロビーに突っ立っていたらそれだけで目立つ。
 ましてや彼は――

「オマエもうちょっと自覚しろ」

 三上の言葉にも首を捻るだけで藤代はまるで何もわかっちゃいない。
 苦々しい思いで三上は言った。
「少しは顔隠せ」
「なんで?……って、ああ。ダイジョウブですよ、ユニ着てなきゃまず誰も気付きませんから」
 あっけらかんとして藤代が言う。
「そんなワケねーだろ」
 実際、有名人なのだ。
 気づかない者は気づかないだろうが、すべての人間がそうだと言うわけではない。
「先輩はスーツの上着脱いでるんスねー。そうやってズボンにシャツとネクタイだけだと武蔵森の制服着てた頃とあんまし変わんないかも」
「何しにきたんだよ」
 藤代の能天気さも三上の苛立ちを倍増させた。元々弛めてあった胸元のネクタイをさらに弛め、髪をかき上げながらイライラと問う。
「何しにって……」
 一瞬言葉を詰まらせた藤代が、それでもめげずに口にした。
「三上先輩に会いに来たんです」
「帰れ」
 即座に返された三上の言葉に、藤代が眉間をわずかに寄せる。
「俺はまだ仕事中だ。少しは考えろ」
「わかってますって。だからちょっと顔だけ見に……」
「帰れ」
 今度こそ藤代が押し黙った。
 それに追い討ちをかけるように、ことさら冷たい声音で三上は吐き捨てた。
「迷惑なんだよ」
「―――」
 藤代が黙って、そして自分も黙ると、しんと静まり返った空間が妙な圧迫感をもって押し寄せてくるようだった。
 薄暗いのもいけないのかもしれない。
 駐車場の弱々しい蛍光灯に照らされた藤代のシルエットはなんだか他人のそれのようで、三上をどんどん落ち着かなくさせる。

 いったい、なんだってこんなところにまで来たんだ?

「だって!」
 急に身を乗り出して、たまりかねたように藤代は言った。まるで三上の内心の声に答えるかのようなタイミングだった。
「だって先週も会えなかった!一昨日も!昨日も!」
 口を開けばまた子どものような言い分に、三上はキレそうになる。
「だから仕事だって言ってんだろが!」
 連日続いている深夜までの残業、それによる疲労も三上の余裕をなくさせていた。
 だが、藤代も簡単には引き下がらない。
「仕事、仕事、ってソレいつになったら終わるんスか。いつになったら先輩に会え……」
「仕方ねえだろ。俺だって好きでお前との約束キャンセルしてんじゃねえよ。なんでわから」
「だって!」
 互いに相手が最後まで言い終わらないうちに次の言葉を重ねる応酬。
 藤代が小さな悲鳴のような声で、また「だって!」と繰り返したのに、三上は一度口を閉じた。藤代の聞き分けのない態度にいい加減、爆発しそうになった感情を抑えるためだ。
「オレ明後日からは海外合宿なんスよ?帰ってきたってそのまま合宿だし」
「それはお前の事情だろうが!急にこんなとこ来やがって!……だいたい今のお前にこんなことしてる暇ねえはずだろ。そんな甘い考えでやっていけんのかよ?もっと集中しろ、集中」
「話をすり替えないでくださいッ!」
「馬鹿!声がデカい」
 反響した声に三上がすかさず抑えた声で咎める。
「………」
 藤代が黙り込んだ。
 三上も気まずい思いで、藤代から目をそらす。
 どうして、こんなところでコイツとこんな不毛な言い争いをしているのか、三上は腹立たしいのと同時に、やるせない気持ちになってくる。
 これ以上こうして顔をつきあわせていても、互いを無闇に傷つけるだけだと、三上はとにかく藤代をなんとか宥めて帰そうと、とにかくそうするしかないと思う。
 本当のところ藤代はここまで聞き分けのないタイプではないのだ。
 駄々をこねてみせても、最後にはちゃんと三上の言うことを理解して受け入れる。今までが、ずっとそうだった。
「――藤」
 一呼吸おいて、三上は口を開きかける。
 が、それよりわずかに早く藤代が言った。
「わかってる」
「………」
「先輩が仕事忙しいのはわかってる。先輩にだって事情があることくらい。こんなことされて先輩が迷惑なだけだってのもわかってるよ」
 落ち着いた低い声でまっすぐに三上の目を見つめて藤代は言葉を紡いでゆく。
「だけどたまにはオレの気持ちもわかれ!」
 最後は命令形で怒鳴られて、そのまま噛み付くようにキスされた。



「………ッ」
 力いっぱい背中のシャツを掴まれる。きっと後から皺になるのは間違いなかった。



 藤代の余裕のなさが信じられなかった。
 口先では文句を言うものの、いつだって彼はサバサバとしていて――本当のことを言うと、むしろ三上が物足りなく思ってしまうくらいだったのだ。
 それなのに。


 唇が離れると、藤代は三上の肩に額を押しつけるようにして言ったのだった。
「会いたかったんだ……会って話してキスして抱きたかった……」
 耳元の藤代の切羽詰った声に、三上は思わず目を伏せる。
 胸を抉られるような、せつない響き。


 努力、してきただろうか。自分は。
 いつだって自分の事情を最優先にしてはいなかっただろうか。
 彼が合わせてくれるのを当然のことのように受け取って。
 『仕事』をすべての免罪符にして。



 彼の気持ちも、そして自分の気持ちも、ずっとぞんざいに扱ってきた。


 
 やがて藤代の掌がゆっくりと三上の背から退いてゆく。
「ごめん」
 短くそれだけ言った藤代に、三上はなんと言葉をかけていいのかわからなかった。ただどうしようもない焦燥感だけがある。
「帰ります」
 先程までの激情が嘘のように落ち着きを取り戻した藤代の声。それに比例するように三上の焦りは増す。
「仕事中にすみませんでした」
「藤代」
 ぺこりと頭を下げて立ち去ろうとした藤代を三上は思わず呼び止めた。
 藤代が振り返る。


 本当は。


 言いたいことがたくさんある。言わなくてはならないことも。
 藤代の目を見つめていると、何かが喉元にせりあがってくるような、息苦しい心地になる。
 それでも言葉を紡げなくて――三上は唇を噛み締めた。
 意気地がない。
 自分はいつもこうだ。
 だけどここで、ここですべてを曝け出してしまったら――きっともうどうにも止めようがなくなる。
 三上はそんな自身を知っているからこそ、言葉に出せない。


 本当は本当は本当は。



 ――握り締めた拳から、三上はゆっくりと力を抜いた。
 

「合宿、……がんばれよ」
「はい」


「怪我だけはすんな……」
「はい」


「俺もホントはお前に……」
 最後まで言葉にすることができず、また押し黙ってしまった三上に、藤代がにこりと笑って口にした。
「三上さん」
 大人びた笑み。柔らかな目許。三上ははっとする。いつから藤代はこんな顔をしてみせるようになったのか。
「行ってきます」
 小さな会釈をして、もう一度三上に向かって微笑んでから藤代が立ち去る。
 



 藤代が去ったあと、口許を押さえて三上はひとり呟く。
「『三上さん』とか言うなバカ……」
 顔が熱い。わけもわからず走ってその場を逃げ出したいような、そんな衝動。
 どんな顔をして自社のフロアに戻ろうか、三上はその場からしばらく動けずにいた。







 会いたいよ。本当はいつだって。





 訪ねてきてくれたこと、本当はうれしかったんだ。





















back


20021104発行のコピー誌「confidential」より再録。