辞  令
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 正直、顔を見た瞬間から何かあるんだろうなとは思っていた。
 自ら持ち込んだテレビゲームをやりながら三上を待っていた藤代は、コントローラーから手を離さないまま、帰宅した三上をチラリと見やる。三上は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ボトルの口からそのまま飲んでいた。何気ないふうを装う、硬質な表情。緩慢にネクタイを弛める指先。
 何かある。
 そのくらいは読めるようになっていた。

「今日、辞令が出た」

「―――」

 先輩ってサラリーマンなんだよなあ、としみじみ思うのはこんな時。
 確かまだ海外に支社はなかったはずだから。

 北海道?沖縄?奄美大島?――本州だったらいいなあ。できれば東海。せめて関西。東北や九州も悪くないけど。できればJ1のクラブが多いトコ。

 藤代は思う。けっこう切実な気分だった。
 移籍する、とか口にしたらきっと本気で殴られるだろう。そんなことまで先へ先へと考える。

「今すげーイロイロ考えてるだろ?」
「考えてますよ」

 三上の目が探るようにじっと藤代を見ている。
 藤代も三上を見返した。
 ゲームはデモ画面に切り替わって、耳障りな音楽を流し続けている。――耳障りだなんて。これまで感じたこともなかったのに。
 藤代はリモコンでテレビのスイッチを切った。

「どこ?」

 三上は答えない。
 なおも探るような視線を藤代に向けている。

 薄氷を踏む心地。

 藤代は自分が掌に汗をかいているのに気づいた。学生時代とは違って明確な期限をもたない今の関係。だけど、そちらの方がずっと脆い。崩壊の瞬間は十年先かもしれず、十分先かもしれない。


 行くな。


 なんて。言えない。言えるか。でも――言いたい。
 藤代の中で数文字の言葉がぐるぐる回る。
 目の前の三上が突如として儚い存在に思えた。


「ヨコハマ」
「え」


「横浜。一応、栄転デス」

 三上がニヤリと笑った。

「マジ?!マジでッ?横浜って……ッ!」
 三上の腕に縋りつく藤代を見下ろして、三上はさらりと言ってのける。
「オマエ知らないだろうけど、うちの本社って横浜にあんだよな」
「知らない知らない!初耳、初耳!うわ、もー、マジで?マジですか?!アンタ、ヒト悪すぎ!あー、ビックリした。もう勘弁してくださいよー」
 ニヤニヤ笑っている三上を抱き締めて、互いの顔が見えないところで、藤代はゆっくりと息を吐き出した。


 本当にこの人は。


 タチが悪いなんてモンじゃない。
 たぶん三上は明確な答えをもっていて――明確な答えを持っていない自分を見ていた。


「この部屋気に入ってたのになー。まあ、通えない距離じゃないんだけど」
「アンタ、それ嫌がらせでしょ」
「イヤガラセでーす」
 唇を尖らせた藤代の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜて三上が笑う。
 三上はずいぶん楽しそうだ。
 もちろん藤代だって、この三上が受けた辞令は諸手を上げて歓迎なのだが――


 もし、これが。


 これまで忘れていた、いや、気づかないフリをしていた、決してありえないとは断言できない可能性をつきつけられて藤代はいまだ動揺していた。
 確信犯だった三上の行動も。


 たった三文字。
 けれど今の藤代がぜったいに口にできない言葉。


「引っ越し、手伝えよ」
 キッチンから三上の声がする。夕食の準備をしているらしく「あー!コメがもうねえ!」などとそんな三上の独り言も混じって聞こえてくる。
「えー、先輩、業者に頼まないつもりッスかー?」
 ゲームを再開していた藤代はテレビ画面に目を向けたまま返した。

 いつもの会話。いつもの空気。

「荷造り。テメエのモンは自分でやれよってコト」
 三上の声が近づいてきて、後ろから顔を覗き込まれた。お前、メシは?食ってませーん。はいはい。
「オレ、そんなにモノ持ち込んでましたっけ……?」
 首を傾げてみせると、三上が心底呆れたような顔をした。
「自覚ねえのかよ……」
「オレとしては三上先輩が横浜に来てくれるんならそれでもう十分……ほかには何もいりません」
 胸の前で手を交差させて抱き締める仕種をしてみせる。
「いりませんじゃねーだろ。ゴミだってな、今は捨てるのにカネいるんだぞ?テメエのモンは責任をもって……」
「ゴミなんてひどっ!」
「俺にはゴミにしか見えねー」




 いつまで。

 いつまでこういうこと、続けていけるだろ?

 藤代は思う。
 オフの日には三上の部屋を訪ねて、三上の帰りを待って、三上の作った食事をいっしょにとって。


「とりあえず今日は引っ越し祝いしましょうよ〜」
 冷蔵庫から冷やしてあった缶ビールを二つ、勝手に取り出す。もともとこれは藤代が箱買いして持ち込んだものだ。自覚はなかったが、振り返ってみると確かにこの部屋への侵食率は半端じゃないかもしれない。
「引っ越し祝いってのは、してからするんじゃねえのか」
 苦笑する三上に、プルタブを開けた缶を手渡して。
「えー、じゃあ先輩のお祝い。なんだっけ?いちおう出世になるの?」
 中身の入った缶を合わせると、ボコンと間抜けな音がした。
「栄転。出世には違いないが、あれだ、ますます忙しくな……」
「えー!!」
 思いっきり叫んでみせた藤代に、三上は「仕方ねーだろ」とまたお決まりの台詞を口にして、缶ビールを傾ける。




『もう、いっそ同棲しちゃいます?』



 なんてね。


 ビールを飲み干す三上の喉元を眺めながら、藤代は一瞬だけ苦く笑んだ。
 いつもなら言えたかもしれない。でも今日はだめだ。どんな台詞も未来を示唆してしまいそうで。どんな言葉も重くなってしまいそうで。



 先輩、気づいてるんでしょ。
 オレがホントはものすごく臆病な男だってことに。



「悪いヒトだなあ」

「は?」

 しみじみとした口調で言った藤代に、三上が不思議そうな顔をしてみせた。
「と・り・あ・え・ず!エイテンおめでとうございマス!乾杯〜!」
「はいはい、どうも」
 缶を掲げた藤代に、三上も小さく笑ってそれに合わせた。






 ホント、悪いヒトだよね。





















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20021104発行のコピー誌「confidential」より再録。