選手の条件
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 よい選手の条件に怪我をしないこと、がある。



 藤代誠二はその点においてもタイヘンに優秀な選手だった。
 危機回避能力が高く、見た目ほど危険なプレイをしないのと、持って生まれた運のよさで、武蔵森学園サッカー部入部以来、ほとんど怪我らしい怪我をしないまま、ここまできた。
 そんな藤代が軽いとはいえ足首を捻挫したのには、本人よりも周囲の方が驚いた。
 主要な大会も終わったばかりで、時期的には助かったという感が強いが、それでもエースの負傷はチームに微妙な影を落とす。
 とくに藤代のような普段元気過ぎるほど元気な人間がピッチの外で大人しく見学しているのを見ると、親友の笠井でなくとも溜息をつきたい気持ちにさせられた。
 だが、そんな空気の中、ただ一人冷たい言葉を浴びせたのが。
「バカがアップを怠るからだ」
「……三上」
 容赦ない一言に、隣りにいた辰巳が戸惑いつつも咎めるような表情を見せる。
 それがかえって藤代の苦笑を誘った。
「いいんスよ、辰巳先輩」
 チームの中でもアップは入念に行うほうで怪我には細心の注意を払っている三上に、おざなりにしか身体を温めないままゲームに突入したりする藤代が何か言い返せるはずもなかった。
 ただ三上はそうまでしても、それを軽く上回る運の悪さで生傷が絶えなかったのだが。
「今度、三上先輩がケガした時は腹抱えて笑ってやります」
「縁起でもねーこと言うんじゃねえよ、ボケ」
 そう言い捨てて、三上が踵を返す。
 二人のやりとりをうろたえながら見ていた辰巳も、「大事にな」そう藤代に言葉をかけて三上の後を追ってゆく。
「キッツイよな、相変わらず」
「それに言い返しちゃうお前もお前だけどさ」
 三上らが去ったあと、やはり傍で見ていた同学年のチームメイトが声をかけてくる。
「ああいう性格なんだよ、アノ人」
 組んだ脚の上に肘をつき、藤代はむっつりと答えた。
「でもホントにはやく戻ってこいよ、藤代」
「やっぱお前がいないと、なんか暗いよ。ウチのチーム」
「ん。サンキュ」
 邪気なくかけられた言葉に、藤代は笑ってみせる。


「ちゃんとあったかくしとけよ」
「ハーイ」
「大人しく見てるんだぞ」
「わかってますって」

 ピッチに出て行く者がなにかしら藤代に声をかけてゆく。藤代はそのひとつひとつに笑顔で答えて、皆のその背を見送った。
 内心の羨ましさともどかしさはどうしようもなかったけれど、今はこれもいい経験だと藤代は前向きにとらえることにする。――そう決めていた。



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 見学だけの日々は、とかく時間を長く感じた。
 もっとも、じっと見ているだけだったのは数日で、すぐに練習には復帰できたが、当然藤代は別メニューだ。
 ボールを使わない練習は単調で、すぐに藤代は飽きてしまう。
 ミニゲーム中のピッチに目をやれば、楽しそうにボールを蹴る皆の姿。
 思わずついてしまいそうになった溜息をこらえて、藤代は与えられたメニューをこなすのに戻った。
「――まったくいい経験だよ」
 そんなふうにひとりゴチてみる。
 そして、ふとリハビリ中の三上の姿を思い出した。
 あれだけ気をつけているのに、混戦に巻き込まれたり、相手のラフプレーを受けたりで、三上は本当に怪我をすることが多く――その度に、今藤代がやっているような単調なメニューをひとりで黙々とこなしていた。
 これみよがしに必死になることもなく、藤代のように周囲に気を散らせることもなく、ただひたすら前だけを向いて。
「―――」
 今、その三上の心情を思う。


 完治までには早くともあと数日を要するのはわかっていた。
 藤代はピッチへの焦がれるような思いを胸に押し隠して、練習を続けた。



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 武蔵森くらい大所帯になると、いくら人や設備が整っているとはいえ、手が回らないことも多い。
 とくに今はシーズンの過渡期で、新しい芽を見つけるのに躍起になっているコーチらの多忙さはここ数日間傍で見ていた藤代にもよく伝わってきていた。
 一軍レギュラーとはいえ怪我人の自分がコーチらの手を煩わせることはできない。
 フィジカル中心の軽いメニューの練習を、藤代はこっそり抜け出してロッカールームへと向かった。

「やっぱり……」
 藤代はストッキングを下ろした自分の足首を見て溜息とともに呟いた。
 今朝、同室の笠井にやってもらったテーピングが練習するうちに、すっかり剥がれてしまっている。
 先ほどから感じていた違和感に間違いはなかった。
 藤代は備品棚からテーピング用のテープを取ってくるとロッカールーム中央に設えられた長椅子にドッカリと腰掛けた。
 怪我をしてからこっち、藤代が自分でテーピングをしたのは実は数えるほどもない。最初のうちはコーチに、あとは笠井にやってもらったりで、藤代はいつも他人のやりようを眺めるだけだった。
 今、それを思い出しながらテープを巻いてゆくものの、いびつによれたり剥がれたりで、ちっともうまくいかない。
 これまでそれほど自分のことを不器用なタチではないと思っていた藤代は、急速にその自信を失いそうになりながら、テープと格闘する。
 そんな藤代の耳に、突然ガラッと引き戸が勢いよく開かれる音が入ってきた。
「あ、三上先輩」
 瞬間的にイヤな相手に見られた、と思った。
 それが三上にも伝わったのだろう。
 三上はちらりと藤代の手許に目をやると、せせら笑いとともに吐き捨てた。
「ヘッタクソ」
「だって慣れてないんですモン!」
 自分でもそれは身に染みていたところだったから、思わず藤代はムッとしてしまう。
 思うようにいかないテーピングと、思うようにならない自分の身体。
 何度も覚悟を決めて耐えてきたつもりだが、実はもうかなりストレスがたまってきているのが本音だった。
 うっかり、この目の前の三上に当り散らしてしまいそうなほどには。
 それに三上が気づいたかどうかはさだかでないが、近づいてきた三上が不意に藤代に向かって手を差し出す。
「オラ貸してみな」
「いいです。自分でやります」
「貸せって」
「自分でやりますってば」
 意固地になって藤代はテープを握り締める。
 普段なら少しでもこういう態度を取れば逆ギレされて放っとかれるのがオチだったが、意外なことに三上は小さく溜息をついただけで。
「てめえのソレじゃ、テーピングにならないんだよ」
 諭すような口調。
 存外に穏やかなそれに、藤代も黙ってテープを差し出さないわけにはいかなくなる。
 藤代からテープを受け取った三上はその場にしゃがみこむと、投げ出されたままの藤代の脚を自身の膝の上に持ち上げた。
 言うだけのことはあって、三上は鮮やかな手つきで藤代の足首にテープを巻いてゆく。
「さっすが、怪我には慣れてる三上センパイ」
 そんな憎まれ口を叩いてみせても。
「るせーな」
 そう言って、ちょっと眉を顰めただけで、三上の手が止まることはない。
 ややもして、あれほど藤代が苦労したテーピングは三上によってあっさりと終了。
 見た目がキレイなだけじゃなくて、ほどよく固定もされている。他人の脚なのにちゃんと力加減がわかる三上のことを藤代はこっそりスゴイと思った。
 余ったテープを三上が無言のまま、藤代に突き返す。
「……アリガトウゴザイマシタ」
 なんとなく、ちょっとまだどこか不本意な気持ちは抜け切らないが。
 後輩の足元に跪いてまでテープを巻いてくれた三上には(普段なら絶対に考えられないことだ)、素直に感謝し、藤代は言った。
 これでどんな恩着せがましい態度を取られるのやら、と藤代はある程度の覚悟を決める。
 だが、いつもなら尊大な物言いで無理難題をふっかけてくる三上が、今日はやけに大人しい。
 ヘンだな、と思って藤代が三上を見上げると。
「藤代」
 三上はそこで一呼吸置き、静かに言った。
「――我慢しろよ」
「――――」
 あと少し。あと少しでピッチに戻れるというこの時期が実はいちばんツライ。


 ――欲しい時に的確に。欲しい言葉をこの人はくれる。


 怪我には慣れっこな三上の、自身の体験から生まれた言葉かもしれない。
 だけど、それだけじゃないと藤代は思う。

 ――三上だから。

 一見冷たいように見せかけて、こういう他人の小さな変化を三上は聡く見逃さない。
 絶対に人には気づかせない藤代の、隠れた弱さにも気づいて、そしてそれを静かに受け入れる。
 声には出さない声を、ギリギリのところでちゃんと逃さず聞いてくれる。



 ロッカールームを出て行きかけた三上が一度戻ってきて、なんだかきまり悪そうに自身のロッカーから上着を取り出し、また出て行った。
 その一部始終を長椅子に腰掛けたまま眺めていた藤代は、ひとりになってようやくその唇に小さな笑みを浮かべる。
 ちょっと乱暴にロッカーの扉を閉めた三上の背と、その赤く染まった耳を思い出し、藤代はこの上なく幸福な気分になった。





 よい選手の条件は怪我とうまく付き合えること、でもある。





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