終了、五分前。
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side:mikami


 少し長めの笛が吹かれる。
 接触プレイ。
 相手方の選手が倒れたまま、起き上がってこない。
 また時間稼ぎかと、三上は軽く溜め息をついた。
 それでも給水ポイントへと脚は動いた。おそらくしばらく立ち上がってこないだろう。そして、ほら、担架も出るか出ないか躊躇している。どうせ出てくるのだろうが、それでまた手間取るのは間違いなかった。ライン際で所在なげに審判の指示を待つ担架係の生徒たちの姿をいったい今日は何度見ただろう。


 給水用のボトルがまとめて置かれた箇所には先に藤代が立っていた。藤代しか、いなかった。

「もー、あいつらしつこい。しょうもない小細工ばっかりだし」

 藤代から差し出されたボトルを受け取って、飲む前に一度口をゆすぐ。埃っぽい。
「いらつくなよ」
「だってこれでどうやって点獲れって言うんですか」
 審判の見えないところで、ずいぶんやられた藤代は相当頭にきているようだった。もっとも、同じくらいやり返していたのも知っている。だが、それは藤代のスタイルではない。泥臭い削り合いより、技術による駆け引きを楽しむ藤代には、ストレスがたまるばかりの試合だろう。
「無理っすよ。あー、もうやだ」
 そう吐き捨てるように言って天を仰いだ藤代に。
「バカ。投げんな」
「先輩……」
「最後まで絶対にあきらめんな。まだ、時間はある。前にボール運ぶから、お前が最後に点とってラクにしてくれ」
「ラクに……」
 藤代の呟きに、三上はちらりと競技場に設置された時計に目をやった。
「たぶん延長までもたね」
「せんぱいっ、やっぱりさっきの…!」
 気づいていたのか、と意外に思って三上は片眉を上げる。
 藤代はまるで自らが痛んだように顔を歪めて三上の脚を凝視した。
「あー、そーゆー顔すんな。狙われっだろ」
「アイツわざとっすよ?」
 眉根を顰めた藤代に、思わず三上は小さな笑みさえ浮かべて。
「だろうな」
 藤代がガクリと項垂れて、額に手をやる。そうして言った。台詞を棒読みするように。
「あ、だめだ。オレ今、本気でムカついた」
「いい傾向」
 藤代が集中してゆくさまが見てとれた。間違いない。今まで何度も見てきた。そういう時の藤代は本当にいい表情をする。震えがきそうな。
「頼むぜ。はやく、ラクにしてくれよ」
 ポンと藤代の肩をたたいて、わずかにその脚を引きずりながら、三上は定位置に戻る。
「任せてください」
 凛とした声が背後で響いた。


「オレが先輩に頼まれて果たせなかったことなんてないでしょ」
 肩越しに振り返って藤代は言う。
「だな」


 本当にこういう時の藤代は頼りになる。
 こいつなら必ずやりおおせる、――そう仲間に信じさせる何かをもっている。
 だから痛む脚を引きずり、ボールを追い、最後のパスを彼へ。


 何度でも。







side:fujishiro


 スコアレスで膠着状態が続いていた。
 引き過ぎるほどに引いて守る相手は延長に持ち込む気まんまんだった。見てわかる。あからさまだ。今も下手な芝居で、試合時間を食い潰すことに必死だ。
「ちゃんと時計止めてんのかなー」
 遠くに審判を眺めやって、ぼそりと呟いた。イラつく気持ちは抑えきれなかった。
 できれば時間内に決めてしまいたい。延長戦にもつれ込んでまで、つきあいたい相手ではなかった。こいつらは少しも楽しいサッカーをしていない。


 藤代が水を飲んでいると、三上が同じように給水しようとやってきた。
 なんだかひどくゆっくりとした歩き方に思えた。

「もー、あいつらしつこい。しょうもない小細工ばっかりだし」
「いらつくなよ」
 少し掠れた声。三上にも疲労が見える。引き気味の相手に今日はいつにも増して厳しいチェックを受け続けているのだ、無理もない。
「だってこれでどうやって点獲れって言うんですか」
 ボトルに口をつけたまま、三上が目を眇めてこちらを見つめてくる。
 そんな三上の態度に甘えて、泣き言を口にした。
「無理っすよ。あー、もうやだ」
「バカ。投げんな」
 水を飲み終わった三上が口許を拭って、呆れたような口調で言う。
 こういう時の三上は叱咤するより、肩の力を抜いたような喋り方をする。
 なんでもないだろ、そんな表情をして。
「最後まで絶対にあきらめんな。まだ、時間はある」
 淡々と、正しいことを言う。
 投げ出しそうになっていたものが、自分の中で再び息を吹き返してくるのがわかる。
 根気のない自分とは違って、三上はこんなときこそ粘り強かった。
「前にボール運ぶから、お前が最後に点とってラクにしてくれ」
「ラクに……」
 そこまで言うのは珍しいと思ったところで、その三上がぼそりと言った。
「たぶん延長までもたね」
 変わらぬ表情。
 けれど藤代の視線は三上の脚に注がれた。
 後ろから引っ掛けるように脚を入れられて引き倒された三上の姿を覚えている。あの時、三上はまるで動じず、すぐに立ち上がってはいたが。
「せんぱいっ、やっぱりさっきの…!」
 思わず高くなった声に、見上げてくる三上の目はひどく静かだ。
「あー、そーゆー顔すんな。狙われっだろ」
「……アイツわざとっすよ?」
「だろうな」
 仕方ない、というように三上が笑う。不敵な笑みにも見えた。
 削られるのも実力あってこそ、三上は自分がチームの要だと自覚している。だからこそ。
 けれど三上の矜持とは別問題で、藤代には藤代の事情がある。
「あ、だめだ。オレ今、本気でムカついた」
 正義感やスポーツマンシップなんてものは持ち合わせていないけれど。
 そういうやり方で本来の三上のパフォーマンスが奪われるのは我慢ならなかった。
 そういうやり方で自分たちを邪魔するのは許せない。
「いい傾向」
 三上がニヤリと笑う。
 どこまでも目の前の人は不敵だった。


「頼むぜ。はやく、ラクにしてくれよ」


 その一言で。
 腹の底で何かが熱くなるのがわかった。視界の端に映る、引きずられる脚。ちくしょう、あいつら、ぜったい後悔させてやる。今にみてろ。顔を上げて前を見据える。睨みつける。白いバーとポスト。あの四角い枠の中に。
「任せてください。――オレが先輩に頼まれて果たせなかったことなんてないでしょ」
「だな」
 溜め息みたいに去り際の三上が答えた。
 安堵したようにも苦笑したようにも思えた。


 尊大だと思うなら思えばいい。
 それを引き出したのは貴方だ。




「……ここで、残り五分でケリつけてやる」


 声に出して呟いて、藤代はぎりっと唇を噛んだ。







side:mikami


 ラストパスを送った三上は、ゴール前でピッチに崩れ落ちる相手選手を見ていた。
 守って守って汚い手まで使った挙句、ロスタイムでの失点だ。
 力も尽きるだろう。
 対照的に、試合終了間近だというのに、まるで今始めたばかりのように元気な選手が飛び跳ねながらやってくる。試合終了の笛はそこで鳴った。

「マジで助かった、な」

 もちろん彼には聞こえない位置で呟く。
 痺れたように麻痺していた足首の感覚が戻ってきて痛みに疼いた。



 挨拶を終えてベンチに引き上げてきたら、すぐにコーチがやってきた。
 ストッキングを下げ、レガースを外して、与えられた氷水でアイシングする。
 俯いて患部をじっと見つめていたら、急に目の前が暗く陰った。

「みーかーみーせーんぱーい」

 楽しげな声がする。
 その歌うような声の調子に三上は俯いたまま苦笑した。ゲンキンなヤツ。
 ほんの十分前まで拗ねてぐずっていた子どもは、いまやすっかり御機嫌だ。

「だから言ったでしょ?」

 ――オレが先輩に頼まれて果たせなかったことなんてない――


 目の前の藤代は、自信に満ち溢れた表情をしていた。いい顔だ、と思う。終了五分前、あの時と同じに。


「ほんっとにオマエは、――FWの申し子みたいなヤツだな」


 一瞬の空白の表情のあと、藤代はきょとんとして。
「もうしご?」
 言葉の意味がわからなかったらしい。三上は氷水の入ったビニールの袋を手に持って、やれやれと立ち上がった。
「……それしかできねえ馬鹿ってこと」
「バカ!?え、なに?褒めてくれたんじゃないの?」
「褒めたんだよバーカ」
 隣りに立って肩をぶつけるように身体を寄せてくる藤代に、三上は笑って答えながら、二人並んで歩いた。



 『申し子』――我ながら絶妙の表現だと、三上は思う。
 今までも、これから先も。
 お前はそうでなくてはいけない。


 前だけ向いて。
 己に対する、絶対の自信を崩すな。







side:fujishiro


 自分が望む足許にぴたりと定規で測ったようにボールが来た時は震えがきた。
 本当にパスを通してきた。
 当たり前だ、後ろにいるのは三上だ。


 前を向いてボールが持てたのは久し振りだった。もっと前からこうして走り出せばよかったんだ。
 そのまま振り抜けばボールはあっけないほど簡単にゴールに吸い込まれていった。


 


 ベンチに座って怪我の手当てをしている三上の前に、藤代は走っていった。
「だから言ったでしょ?」
 腰に手をあてて、藤代は誇らしげに胸をはってみせる。
 そんな藤代をゆっくりと見上げた三上は、大きな溜め息をついてみせて――それから笑った。
「ほんっとにオマエは、――FWの申し子みたいなヤツだな」


 眩しいものを見るように目を眇め、どこか遠いような、やさしくて綺麗な笑顔だった。


 それが自分にとって何よりの褒美なのだと、唐突に藤代は理解する。
 知らず、言葉を失った。



 三上の笑みが不審そうな表情に変わる前に、藤代は慌てて取り繕った。
「もうしご?」
「……それしかできねえ馬鹿ってこと」
 呆れた声と表情が返ってくる。そのままロッカールームに引き上げようとする三上にくっついて、いつものポジションを確保する。
「バカ!?え、なに?褒めてくれたんじゃないの?」
「褒めたんだよバーカ」
 三上が笑う。その横顔を見つめながら藤代は考えていた。

 あと何度――

「それより、お前も脚、ちゃんとケアしとけよ。いっつもクールダウンいい加減にしかやんねえだろ」
 すっかり三上は先輩の顔に戻って小言めいた台詞を投げてくる。
「わかってますって」
 合わせるように藤代もやんちゃな後輩のそれで、調子よく答えてみせた。


 あと何度、さっきみたいな笑顔が見れるだろう。
 あの特別な褒美を、自分は何度受け取れるだろう。




 だから――
 この人の前では誰よりもストライカーであろう、藤代はそう心に決めた。




 前だけ向いて。
 最後のその一瞬まで貪欲にゴールを。


















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