贅沢だよ。
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「藤代は贅沢だよ」


 普段ほとんどと言っていいほど言葉をかわすことなんてない相手からイキナリそんなことを言われた。しかも背中に向かって。よく通る声で。まるで背後から銃で撃ち抜かれたようだった。
 ガコンと音がして自販機からオレの選んだオレンジジュース(きりり)が出てくる。
 それを拾い上げてから振り向いた。

「郭?」
 先程のオレと鳴海の談話室での会話を聞いていたらしい。それについての言葉らしい。他に心当たりはなく、そうとしか思えなかった。
 思わず前に立った郭の顔をまじまじと見返してしまう。
 郭は目をそらさなかった。
「ぜいたく?オレが?」
「そう」
 郭の黒い黒い瞳。感情というものをあまり映さない。
 それは普通に見ていれば何も気づかなかっただろうけど、今日のオレは珍しく注意深かった。
 言ったそばから郭は後悔しているようだった。
 思わず口にしてしまったという類のあれは彼の中ではまったくの予定外の台詞らしい。

 今夜のお題は年上の人との恋愛についてだった。
 オレも鳴海も年上が好きなので話がよくあった。
 二人して年上相手の恋愛のままならなさを愚痴り嘆き、それを楽しんだ。

 あの会話のどこに郭は引っかかりを覚えて苛立ったのだろう。
 そう。郭は明らかにイラついていた。あの一言には責めるような響きがあった。だからこそオレは撃たれたような気になったのだ。

「そこどいて」
 言われて横に身体をずらす。
 郭は生茶を選んだ。オレの嫌いな緑茶系だ。
 オレは自分のオレンジジュースの缶を開けて渇いた喉を潤す。さっきまで鳴海と馬鹿みたいに他愛ない話題で盛り上がって喉がカラカラだった。それで飲み物を買いにきた。そして郭に絡まれた。
 なんなんだろうと思う。
 郭は無口なほうで、それでなくとも始終ユース組のやつらとつるんでいるし、お互い顔は見知っているものの親しげな口をきいたことはない。
 サッカーのプレイにはそつがない。実にスマート。試合では優れたラストパスを多く供給してくれる。真田がより好みそうなパスだが、それは仕方ない。オレにもオレ好みのパスをくれる唯一人がいるのだから。残念ながら今回の東京選抜では選に漏れたが。

「ねえ、オレが贅沢ってどういうこと?」
「言葉どおりの意味だよ」
 郭はもうあまり口をききたくなさそうだった。
 しかしそうはいかない。最初に撃ってきたのはお前のほうだ。鳴海との勢いとノリだけの会話の後に郭の一言はなかなかのインパクトをもってオレの胸に響いた。ぜひ真意をお教え願いたい。
 郭はしばらく黙ったまま買ったばかりの缶の蓋を開けもせずにそこに突っ立っていた。オレも壁にもたれて郭の言葉を待つように黙っていた。


「そばにいるんだろう?年齢差なんて……。そばにいるだけでじゅうぶんじゃないか」


 観念したように郭が小さく笑って手の中の缶をじっと見つめて呟いた。
 それはとても痛そうな笑みだった。
 郭のこんな表情をオレは見たことがなかった。チームメイトの新しい顔を目にするのは興味深い。
 ああ、郭は。
 郭は本気でつらい恋をしているんだなと思った。
 いくら馬鹿なオレでもそのくらいはわかる。
 それから自分でもびっくりするくらいやさしい気持ちになって、郭にこんな表情をさせる相手を郭のかわりにぶん殴ってやってもいいなと思った。その相手の顔がなぜか唐突に浮かんで、なんの根拠もないのになんでそいつなんだろう、おかしいなあと思いながらオレは口にした。
「なー、思ったんだけどさ。郭の好きな人って韓国の従兄どの?」
 ごくごくごくと缶ジュースを飲む合間に訊いてみる。郭のことはよく知らないから本当にただの思いつきだった。でも冗談のつもりはなかった。なんとなく本気でそう思ったから口にしたのだ。
 すると郭は持っていた缶を床に落とした。カーペットが貼られた床はそれを受けてゴトリと鈍い音をさせる。漫画みたいなリアクションをするやつだ。なんだかオレは郭のことが気に入り始めていた。
 床に転がった生茶の缶をゆっくり落ち着いた動作で拾い上げると。
「藤代」
 一拍おいて郭は言った。声に動揺の色はまるでなかった。
「お前はおそろしく勘が良くて怖いよ。ストライカーと呼ばれる人種は皆そうなのかな。一馬もときどき鋭いことを言う」
 まるで本を声に出して読むように郭はすらすらと喋った。
 それから郭は唇の端を歪ませる皮肉な表情になって(自嘲を含んでいるようにも思えた)オレを見た。
「男同士だよ?なんでそう思ったの」
「うーん」
 それはオレも同性の先輩が好きだからです、とは言えない。さすがに。
 まあ郭になら言ってもいいかなとは少し思ったけど。なんだか意外といい相談相手になってくれそうな気がする。
 オレは缶の残りを飲み干しながら郭の顔を眺め、冬の記憶を辿った。

 そうか。あの韓国の十番か。そりゃあ遠距離恋愛だね。しかも国籍の異なる同性の身内か。オレたちが年齢差ゆえの障害を呑気に語りあう横で郭はきっと自分の恋愛の障害を数え上げていたに違いない。そして席を離れサービスコーナーの自販機前でオレを見つけた。衝動的に何か一言言ってやりたい気分になった郭の心理はオレにも手に取るようにわかる気がした。


 ところで相談相手といえば。
「あいつらにはそゆこと言わないの?言えないの?」
「あいつら」
「若菜と真田」
「うん」
 答えながら、郭は微笑んだ。
「心配するからね」
 なんの心配だかはわからなかったけれど、どれほど親しい仲でも、いや親しいからこそ明かせない秘密はある。郭はずっとそれをひとりで抱え込む疲労を蓄積させて、今日に限ってうっかり何の関わり合いもないオレに対して絡んでみせちゃったりしたのだろうか。能天気なオレの発言にイラついて。



 だけど郭。

 血の繋がりは一生じゃないか。
 離れていても離れていなくとも。
 互いを縛り、縛るあまりに距離を置き、それでもなお忘れ去ることのできない互いの存在を。
 別離の痛みも寂しさも一生ものだ。

「贅沢なのは郭の方だと思うけどね」

 自分でも意外なほどに実感の篭った声になった。

「そばにいても遠いことってあるじゃん」


「……藤代がそんなこと言うなんて思わなかったな」
 失礼な、そう唇を尖らせてみせてから笑う。郭も笑った。笑うと本当に綺麗な顔になる。普段のすました顔よりオレはこっちの顔の方が好きだなと思った。それから、なぜか三上先輩のことを思い出した。思い出してたまらなくなった。
 ことあるごとに記憶を甦らせる。離れている相手に恋をするのはせつないよね郭。距離は違ってもそれはちょっとだけわかるよ。


「藤代はなにもかもが順風満帆なのかと思っていたよ。そんな細やかな心の機微に触れるような台詞を口にするとは意外だ」
 本当に失礼なやつだな。だけどそういうところがいい。オレはすっかり郭に心を許していた。
「伊達に二年間片恋してるワケじゃないからね」
「片恋なの?藤代が?」
 郭が少し驚いた顔になる。
「今のところはね」
「今のところは、か」
 また郭が笑う。少しばかり顔を俯けて。オレの不遜な発言を呆れるように、そしてどこか楽しげに繰り返した。こういうところ、なんだか似ている。やばい。好きになりそう。
「振られたら相手してよ」
 甘えた声音でそう口にすると。
「ごめんだね」
 きっぱり言い放って郭はいつもの、オレがよく知っている冷たい笑みを口元に浮かべた。
 それでこそ郭英士。


「やるよ」
 封を切ってないままの、床に一度落とした生茶の缶を郭がオレの手の中に押し込める。
「えー、いらない」
「八つ当たりしたお詫び」
「えー嘘だ。お前自分が飲みたくないから押しつけてるだけじゃん。だいたい床に落としたじゃんコレ!」
「藤代なら飲めるよ」
 郭がくすりと笑ってその場を去ろうとする。
 気がつけば視線の先に若菜と真田の姿があった。郭を探しにきたらしい。遠巻きにオレと郭を見ている。近づいてきたって取って食いやしねえっての。まあ、珍しい組み合わせに少々戸惑っているだけだろうけど。
 郭は遠くの二人にちらりと目線をくれて、それから何かを牽制するような悪戯っぽい眼差しをオレに向けた。
「あと、口止め料」
「いらねえって!」



 郭が去って手の中に残された缶を持て余すようにオレは見た。これはあとでこっそり鳴海の荷物に突っ込んでおいてやる。今夜のオレたちの不毛で甘ったれた会話の記念としてあの人へのお土産にしてもいいけど、たぶんいらねえって言うだろうしね。


















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