「先輩の初めての相手がオレだなんて感激ッス〜」
 ぬくぬくとした布団に包まれ、藤代は心から幸福を噛み締めるように口にした。
 一方、同じ布団の中、三上はまるで苦虫を噛み潰したような顔で。
「……だから、もうソレやめろって……」
 そう力なく言うと、シーツに突っ伏す。
「え、だって! やっぱり嬉しいじゃないスか! 自分の好きな人が初めてセッ…」
 容赦なく背中に蹴りを入れられて、藤代は悶絶する。
「声がデカイ」
 寝返りを打って仰向けになった三上は溜め息混じりに言った。
「ここけっこう声通るんだよ。壁薄いからな」
 言われてなるほどと思うが、つい口が滑る。
「そんなの今更じゃないスか。だったらさっきまでの三上先輩の声、筒抜け……痛ッ!」
 今度も手加減なしの三上に、藤代は布団から蹴り出されそうになる。
 しかし、それも言ってしまえば照れ隠し、じゃれあいの延長だ。
 藤代は相好を崩したまま、三上に問いかけた。
「ねえ、先輩はどう?」
「なにが」
「初めての相手がオレで」
「………」
 しばしの沈黙のあと、三上が天井に向かってぼやくように言った。
「あのな……そういうコトを平然と訊くなよ、お前……」
「だって。もし先輩もオレと同じように思ってくれてたらうれしい」
 ニコリと笑って藤代はそう告げる。
 三上は目を伏せ、一度大袈裟な溜息をついてみせたあと。
「お前には負ける」
 そう言って。
 それまでずっと不機嫌そうな表情を崩さなかった三上が、初めてふっと笑みを洩らした。
 瞬間、その柔らかくなる目元と口許の綺麗さに、藤代ははっと胸を衝かれる思いがする。
「――先輩」
「ん?」

 ――好きだよ。

 ――オレ本当に先輩のコトが好き。

 高鳴る気持ちを抑えきれず、藤代は手を伸ばし三上を抱き締めた。
 三上も大人しくその腕に抱かれて逃れようとはしなかった。
 腕の中の、温かな存在。
 とにかく手に入れたくて、彼と熱を分け合いたくて、そればかりを考えてきたけれど。
 今は抱く前よりずっとずっといとおしくて。
 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 ――オレにとっても先輩が初めての人かも。

 藤代がそんな想いを心の内で噛み締めていると、不意に腕の中からくぐもった声がした。
「俺もよかったよ」
「え……」
「相手がお前で」
「………み」

 かみ先輩ッ、と感激に藤代が腕の中の三上を抱き締め直そうとした時。
 玄関ドアのキーが差し込まれる音、次にガチャリとドアノブの回る音がして、二人同時のタイミングで身体を強張らせた。

 ――間……宮〜〜。

 在学中、呪術師の系譜だとまことしやかに噂が流れたこともある間宮。
 しかし、呪い返しなどものともせず、藤代は本気で間宮を呪いそうになる。
 なんという間の悪さか。
 このまま知らぬ振りを決め込みたいところだったが、腕の中の三上も当然この事態に気づいている。瞬時にして藤代をはねのけ布団を出ると、衣服を探し出す。甘い雰囲気は霧散した。
 藤代は手早くジーパンだけ履いて部屋を出ると、台所でヤカンをコンロにかけている間宮の背中に叫んだ。
「間宮てめえ!今日は徹夜じゃなかったのかよッ!?」
 上半身裸のまま詰め寄る藤代の剣幕にも間宮は動じることなく、あっさりと答える。
「途中で失敗して実験は中止になった」
「失敗すんな!」
すかさず返された藤代の言葉に、間宮が手を止めないまま言った。
「これからだったのか?」
「何が」
 藤代が問い返すと間宮が振り返り、ビシッと奥の間を指差す。
「ナニだ」
「いや、終わったあとだけど……」
「なら問題なかろう」
 言いながら茶筒を取り出す間宮のくつろぎ体勢に、藤代は脱力しそうになる。
「お前のその落ち着き具合はなんなんだよ……」
「別に俺はかまわないが」
 第二ラウンド、と言外に間宮が伝えてくるが、藤代はガックリと頭を項垂れて。
「そりゃ、オレだって気にしないけどね。お前がいようといまいと」
 顎で隣室を差し。
「あの人はダメでしょ」
「確かに」
 間宮が頷いた途端、バターンと襖が開いて、きっちり衣服を着込んだ三上が登場した。
「ほらね」
 と、藤代は天を仰ぐ。
「ま、ま、ま、間宮……お、お、お前いつ帰って……!」
 そんなにどもらなくても、と藤代は三上の狼狽ぶりに頭を抱えそうになりながら、ただ黙って事の成り行きを見守る。
 普段ソツがないだけに、こういう場面でのギャップが際立つ。が、三上はもともとそういうところがある。
「心配しなくとも今帰ってきたところだ。何も見てないし聞いて……聞きはしたかな?」
「―――ッ!」
 首を捻る間宮に、言葉を失う三上。
「先輩、そんな急に動いちゃ……」
 三上は自覚がなかったのだろうが、慣れない行為による身体への負担は確実に残っている。
 案の定ふらりと足元がもつれて、倒れかけたところを藤代の腕に支えられる。
 しかし今回は間が悪かった。
 間宮の目の前で藤代の腕に抱きすくめられた三上は、その自身が置かれた状況に激昂寸前だ。
「離せ……ッ!」
 藤代を押しやろうとして再び倒れそうになったところを、これまた藤代に助けられてしまう。
 それを眺めつつ、間宮も一言。
「三上。素直になったほうがいい」
「ほら間宮もああ言ってるじゃないスかー」
「……ッるさい!」
 後輩二人から諭すような態度を向けられたことで、三上の動揺は怒りへと転化してしまったようだ。
「お前ら、みんな出てけ! ここは俺ンちだッ。家主は俺だっ」
「先輩そういうのヤツ当たりって言うんですよ」
「やはり事後は女でも男でもナーバスになるということか」
「いや、それは一概に言えないんじゃ……」
 真剣な顔で、話し合い始めた二人の頭上に三上の怒号が響き渡った。

「いいから出てけーッ!!!」



□□□



 わけのわからぬまま三上に追い出された藤代と間宮の二人は近所の公園にやってきていた。
 深夜に差しかかろうかというこの時間、公園には誰もいない。
 出かけに慌てて素肌へ直接引っ掛けてきたブルゾンのポケットに幸い財布が入っていて、藤代はそれで二つ缶コーヒーを買った。一つは間宮に差し出す。奢りだと言うと「悪いな」と受け取った。コミュニケーションがまったくとれないわけではないのだ。藤代は間宮と並んで無人のベンチに腰かけた。 
「なあ、なんで間宮は……オレらがああいうことしてたってすぐわかったんだ? 勘いいよな」
 見かけによらず、というのは言わないでおく。
「お前の勘が悪すぎるんだ」
「えーオレぇ?」
「学生時代から三上はお前のことが好きだったぞ」
「はあ?」
 間宮がいつにもまして胡乱げな目つきで藤代を見やる。藤代は思わず呟きを漏らした。
「う、そ……」
「嘘なものか。お前のことばかり見ていた」
 普段と変わらぬ抑揚のない声で間宮は言ってコーヒーの缶を傾ける。
「………そうなの?」
「自覚があったかどうかは知らんが」
「あ、それはなさそう。あの人、鈍いし、超オクテだし」
「お前が去年の夏に試合中負傷したとニュースで聞いたときはすごい取り乱しようだった。手にしていた茶碗を床に落としてな。パリーンと割れて。ドラマかマンガみたいだった」
「へえ……」
 擬音までつけて詳細に説明してくれる間宮に異質なものを見たように感じながらも、藤代は頷いた。
「アンダーの召集前だったろ?」
「ああ、うん。怪我はたいしたことなかったけど、それで行けなくなっちゃったんだよねー」
「三上は惜しんだんだ。そしてよくわかってた。チャンスをフイにしたときの悔しさを」
 藤代にとってはもう過ぎたことだ。
 けれど、三上がそんなふうに思ってくれていたことに今さらだが心苦しくも嬉しくも思う。
「間宮、今日は語るね」
 藤代は照れ隠しに笑ってみせる。
 これは二人の時間をはからずも邪魔してしまった間宮なりの罪滅ぼしなのかもしれない。
 間宮はその三白眼でちらりと藤代を見てから、また自分の世界に戻るようにぼそぼそと呟いた。
「……三上もようやく積年の想いが実を結んだな。どれ、明日は赤飯を炊いてやることにしよう」
「頼むからそれだけはやめて間宮さま……」
 本気か冗談か判然としない間宮の言葉に、藤代は取り縋る。
 そんな二人の正面から聞き慣れた声がした。

「お前ら、何やってんだよ。風邪引くだろうが」

 三上だった。暗がりから近づいてきた三上のその手には二人分のマフラーと手袋。

「三上先輩」

 公園の街燈に照らされた三上は、今はもう何でもないような顔をして、すっきりとその場に立っている。
 ベンチからその姿を見上げる藤代はしみじみと思った。

 ――ああ、やっぱりオレ、この人が好きだなあ。

 顔も髪も声も。立ち居振舞いとか何気ない表情とか――ぜんぶ好きだ。
 すっかり見惚れているとマフラーと手袋を投げつけられる。
「風邪なんか引かれると同居人の俺が困るんだよ。さっさと戻れ」
 こんな言い回しも三上らしくて――藤代は微笑んで頷いた。
「うん」


 三人で部屋までの短い帰路を辿る。
 いい夜だ。
 藤代は冬の空を見上げて、澄み渡った夜の空気を肺いっぱいに吸い込む。
 三上に対してはもちろんだが、なんだか間宮に対しても親密なものを感じていた。 
「あー、さっきはその……悪かった。叩き出すのはやりすぎた」
 目線は前を見たまま、三上が言った。
「いいですよ、もう。間宮からいい話も聞けたし」
「なんだよ、いい話って」
「ナイショです」
 三上は胡散臭げな表情で藤代を見返したが、それ以上の追求はなかった。
「間宮も……悪かったな。――もう、あんなのはねーから」
「えー!!」
 気まずそうに口にした三上の横で、声を上げたのは藤代だ。
「当たり前だろうが!今日はちょっと流され……いや油断したが、そもそも公共の場でやることじゃねえだろ」
「家の中のどこが公共の場なんですか!そりゃ先輩ちょっと声出しすぎだったかもしれないけど!」
「なっ……!」
 三上が瞬時に赤くなって言葉に詰まり、その場に立ち竦む。
 そんな三上にはまったく構う素振りも見せず、歩き続ける間宮が冷静すぎるほど冷静な声で言った。
「俺は気にしないが。家主は三上だしな。藤代とセックスに耽ろうが、声を上げてよがろうが、」
「間宮間宮、間宮様ストーップ!」
 藤代は間宮の口を押さえる。
 そうして恐る恐る後ろを振り返る。
 三上は道のど真ん中にしゃがみ込んで頭を抱えていた。

「もう勘弁してくれ泣きそう俺」

 ――うわー、本気で涙声だし。

「間宮、先輩泣かすなよ」
「お前に甲斐性がないだけだろう?」
 返された間宮の言葉に藤代は一瞬きょとんとする。それから、眉を顰めた。
「えー、そうなんの」
「違うか?」
「うーん」
 首を傾ける。
 巡らせた考えに、確かにと藤代は思った。



□□□



 翌朝はもう普段どおり。
 これまでと変わらぬ朝の風景だ。

 朝食を済ませたあと、朝刊を読み耽る間宮、そしてその横で藤代は熱心に新聞の折り込みチラシ広告を眺めていた。
 そんな各人の前に、本日の給仕当番である三上が湯呑みを置いて自分も席に着く。
「ねえ先輩」
「ん?」
 折り込み広告から目を離し、藤代が三上へと向き直る。
「オレ今季はもっとがんばります」
 何を言い出すんだ急に、という目で三上がこちらを見たが、藤代は構わずに続けた。
「目指せ年棒大幅アーップ! で、来年マンション買って三上先輩をそこに迎えます!」
 台詞とともに突き付けたのは都内新築マンションの販売チラシ。
「な……」
「名付けて『二人の愛の巣計画』です!」
「あいのす……」
 湯呑みを持ったまま固まった三上を置いて、今度は間宮へと向き直って告げる。
「間宮、悪いな!来年はオレたちココ出てくから!今から次のルームメイト候補、探しといてくれよなッ」
「まあ、構わんが」
「いや、お前も構えよ!」
 フリーズ状態を解いた三上が炬燵から身を乗り出すと、間宮は眼前に広げた新聞紙の向こうから目線だけ覗かせて言った。
「仕方なかろう。大学だって同時に卒業するわけじゃない。いつかは嫁いで家を出てゆくもんだ。残り一年で送り出すも、残りニ年で送り出すも同じことだ」
「ちょっと待て!嫁ぐってなんだ嫁ぐって!お前が言うと冗談が冗談に聞えないんだよ!」
「三上先輩、どんな間取りがいいか検討しておいてくださいネ」
 バサバサと大量のチラシを三上の前に積み置くと、藤代は大きく伸びをして立ち上がった。

「うおーし! なんかヤル気出てきた! 今年はやるぞー!!」

 藤代が大いにモチベーションをアップさせる横で、呆然となる三上。
 その真向かいでは、間宮がやはりすんとも変わらぬ表情で朝刊を片手に湯のみの煎茶をすすっていた。







おしまい










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