均衡 ---------------------------------- 開幕戦のチケットをもらった。全部で三枚。 「藤代ォ?」 残り一枚の行き先を聞いて、三上が露骨に嫌な顔をして見せた。 さあ始まった、と渋沢は思う。 「あいつうるさいだけだから誘わないでいいよ二人で行こう二人で」 三上はそっけなく言ってのけると、この話は終わったとばかりに自分のデスクに再び向き直る。 もちろん次は渋沢の番だ。 「だけど藤代、Jリーグの試合見たがってたろう? しかも専用スタジアム。しかもしかも、ゴール裏じゃないぞ? ちゃんとバックスタンドだ。バックスタンドなんだぞ三上」 芝居がかったように両腕を広げてみせた渋沢を三上が片手を掲げて制した。 「うん。渋沢、このチケットの価値は俺もわかってるから」 「ならば無駄にするには忍びない俺の気持ちもわかってくれるな、三上よ」 春休み中の短いオフで寮内にはほとんど人が残っていない。 選手権出場で正月休みがなかった分、代替で今の時期、実家に戻った部員は多い。 その状況を承知で三上はなおも抗うのだ。 「別に藤代じゃなくても……見たがってるヤツは他にもいるだろうが」 「ああ、水野とか?」 さらりと口にする。三上の表情は変わらない。しかし変わらないことイコール意識していることの顕れだ。 「お坊ちゃんはまだご実家でしょう」 「誘えば来られる距離だろう? 水野なら」 ここ武蔵森学園高等部にて先輩後輩の間柄となってもう丸一年が経過するというのに、なおも言うなら、すでにフィールド上では互いを認め合って息の合ったプレイを見せているというのに、二人の犬猿状態はいまだ続行中だ。おそらく残り一年もこんな調子だろう。 というわけで、この手の挑発もいまだ有効中というわけだ。 渋沢が薄く笑ってみせると、三上は舌打ちして自分の首の後ろに手をやる。三上の降参のポーズだ。 「あー、わかったわかった。藤代の馬鹿でいいよ」 藤代『が』いいんだろう、まったく素直じゃない。 渋沢はこっそり肩を竦めてみせた。 三上と藤代。こちらは先輩後輩となってもう丸四年。間一年はそれぞれが高等部、中等部で離れていたとはいえ長い付き合いだ。傍目に見ても気が合うのは確かなのに、彼らはそんな素振りを見せない。気難しい先輩と生意気な後輩というそれぞれの立ち位置を頑なに変えようとしない。 もちろん―― 渋沢は手の中のチケットを見つめた。 いきなり立ち位置を変え、部内・寮内・学内ところ構わずラブラブと二人の世界を築き上げられても、困るのは渋沢を始めとする周囲の者なのだろうが。 (ラブラブ……) 想像してみたが、あまり渋沢に違和感はなかった。 それより常に節制しているような二人の態度のほうがずっと気になる。 (もうちょっとこう……二人はイチャイチャしてみてもいいんじゃないだろうか) 部内の人間が耳にしたら口を揃えて「渋沢それヘン!ヘンだから!」と涙目で諭されそうだが、渋沢はわりと本気だった。 (だって二人とも) チケットに印字された日付に目をやる。 (あと一年、じゃないか) □□□ 「えー、もっと前で見ましょうよお。先輩、目ェ悪いくせに。見えんですか、ここで」 「うるせーな、余計なお世話だ」 スタジアムに着いて早々、唇を尖らせる藤代に眉根を寄せる三上という馴染みの光景が繰り広げられて、渋沢は軽く溜め息をつく。 開幕戦ではあったが、ここ数年のホームチームの成績不振と対戦カードの地味さで、お世辞にもスタジアムは満員とはいえなかった。そんな控えめな需要に対し、数万人を収容するこの箱は大き過ぎた。供給された座席は余っている。しかしおかげで比較的自由に座席を選ぶことができた。見やすい場所には観客がそれなりに密集しているが、基本的にはスタンド最前列から最後列まで選り取り見取りであることは変わらない。 「俺は全体の流れが見たいんだよ」 「そんなのテレビで観るのといっしょじゃないスか!つまんないつまんないつまんな」 「お前たち、ちょっと静かにしないか」 間に挟まれて渋沢は頭痛を堪えるように額へ手をやる。 仲がいいのか悪いのか、まるで兄弟のような二人だ。 渋沢に弟妹はいないが、こうして三上と藤代の間に座っていると、年子の弟二人を持った長兄のような気持ちになる。 「えー、キャプテンだってもっと前のほうがいっすよねえ?」 「うーん、高さはこんなものかと思うが、俺はどちらかというともっとゴール寄りのほうがいいかな? ラインの上げ下げがよく……」 わかる位置で、と続けようとした言葉は最後まで言えなかった。 「「却下!」」 二人の声が綺麗に揃う。 確かに中盤と前線を担う二人に守備ラインの上げ下げなど退屈なのかもしれないが、見ておいて損はないはずだ。自分たちが切り崩すヒントにもなるだろう。 しかしニ対一で渋沢の意見が通るはずもなかった。 もちろん誰に強制されたわけでもないから、三人並んで観戦せずとも、見たい場所で各々が勝手に座るのもありだ。が、そこまで自分たちは個人主義でもない。 結局、三上が最初にさっさと陣取った席にそのまま座ることになった。 右手に三上、左手に藤代。 (両手に花?) いやいや、それは違うだろう。花というよりこれは。 右耳からは三上監督の指示と分析が、左耳からはコールリーダー藤代の雄叫びが聞えてくる。二重音声だ。両極端な二人の観戦態度だが、まあ楽しんでいるようだから問題ないだろう。 実際、試合は面白かった。 観客が満員でないのが惜しいくらいだ。 スタジアムは開幕戦らしい盛り上がりを見せ、試合は怒涛の前半を終えるとハーフタイムを迎えた。 「コンコースに売店が出ていたようだから、何か買いに行こうか」 「あ、俺あったけえ飲み物。買ってきて」 「オレはヤキソバー!」 「お前たち……」 こんなことばかり息はピッタリだな、と溜め息をついて渋沢は立ち上がる。 まあ下手にウロチョロされるよりは、自分で何もかも済ませてしまったほうが面倒がなくていい。とくに藤代の場合。 渋沢はすっかり引率者の気分で買い物に向かった。 途中、座席入り口のところに係員の立つゲートがあり、半券がないと再入場できないことを知った渋沢は、それをバッグの中にしまったままだったことを思い出した。少し急ぎ足で席へと戻る。 自分たちが座っていた席を渋沢は探して、そこでふと目を止めた。スタンドには十分な傾斜があるので、こんな位置からでもよく見えるのだ。残った二人の様子が。 藤代が今は空の渋沢の席に手をつき、乗り出すようにして三上のほうへと身を寄せている。 三上は前を向いたまま、だけど、ほんの少しだけ藤代の方に身体を傾げて。 顔を寄せて何事か囁くか呟くかしたらしい、するとそれまでムッツリと不機嫌な表情を崩さなかった三上が、ちょっと笑って――それを見た藤代がうれしげな笑顔で語り出す。 ちょうどピッチにはハーフタイムを終えた選手らがぱらぱらと姿を見せ始めていて。 藤代はそのピッチを指差し、大きな身振りも加えて話す。 誰か固有の選手のプレイについてだろうか、それとも試合内容についてだろうか、とにかく熱心に藤代は喋り続ける。 そんな藤代の横顔を三上は楽しげに、そしてこれ以上ないってくらいのやさしげな目をして見守っていた。 (あんな顔、するんだな) 二人を纏う空気は、二人きりの時にだけ、ほのかな変化を見せるのだ。 自分の前では相変わらず仲の悪い兄弟のように振る舞ってみせる二人だが、本当はそれぞれが見かけよりずっと大人なのだということを渋沢は思う。 そんな二人から差し出される、甘えのような、気遣いのような、曖昧で、それでいて心地いい自分の居場所。 自覚があるのだろうか、二人に。 日々、渋沢を間に置いて決定的には詰めない二人の距離。 節制というよりも、それは躊躇いだ。 躊躇いには密やかな幸せも含まれている。今日、それに気づいた。寄りそう二人の姿を目にしてわかった。 「おう。どうした渋沢」 先に気づいたのは三上だった。 「キャプテン遅いッスよ。もう後半始まりますよー。あれ、ヤキソバ売り切れっすか?」 渋沢の両手が空なのを見て藤代が首を傾げる。それはもういつもの無邪気な後輩の顔だ。 「あ、いや、半券を忘れたので取りに戻って来たんだ。今からもう一度買いに行ってくる」 「バカ。何やってんだよ、もう飲み物いらねーから座ってろ。後半始まっちまう」 「ああ、うん」 三上に強引に腕を引かれて渋沢は腰を下ろした。 「キャプテンは後半どうなると思います? 三上先輩はねー、後半立ち上がり十分は前半とおんなじで動かないって言うんですけどね、オレの予想は違うくて〜」 いつものように藤代が楽しげに渋沢へと話しかけてくる。 それがなんだか新鮮に感じられて仕方がない。 突如起こった自分の中の感覚の変化がおかしくて、渋沢はこっそり含み笑いを漏らしてしまいそうになる。もちろん藤代はそんな渋沢のようすに気づくわけもなく喋り続けている。 「ま、結果は三上先輩が1-0、オレが2-1で勝つほうはいっしょなんですけどね。それじゃイマイチ賭けとしては盛り上がりに欠けるっていうかー」 「別に俺はお前と賭けたつもりはねーぞ」 「あれ、三上先輩、もう弱気?」 「るせえな」 渋沢は小さく笑って言った。 「俺はスコアレスドローだと思うよ」 「え、それいちばんつまんない!」 藤代が眉を顰めて唇を尖らせる。そして右横からも醒めた声。 「……その点に関しては俺もこの馬鹿と同感」 「馬鹿は余計ッスよ」 「そうか? 楽しいじゃないか」 (気づいたんだ、今さっき) 崩れそうで崩れない均衡を眺めているのも、案外楽しいものだってことを。 それはサッカーに限ったことではないということも。 (本人たちには少々つらい時間かもしれないけれどね) (だけど本当は、楽しんでいるんだろう?) 「……キャプテン、ひとりで何笑ってんですか」 気づけば、藤代が不可解だという顔をしてこちらを見ていた。 「いや、楽しくてね」 渋沢は腿の上で組んだ手の指に顎を載せてピッチを眺めやる。 「まだ始まってませんよ?」 「始まってるよ、もう」 首を捻る藤代とは対照的に、斜め背後から三上の胡乱げな視線を感じる。敏い三上のことだ。渋沢の含みのある物言いに早くも何かを感じ取ったらしい。 渋沢は微笑んで、ちらりと三上を見やった。 「さて均衡を破るのはどちらが先かな」 本当に三上は察しがいい。 渋沢の暗喩の対象が何であるか、曲がりなりにも気づいている顔だ。 それとも自覚があればなおさらか。先ほど戻ってきた渋沢と目が合って、一瞬しまったという顔をしていたのは、どうやら渋沢の見間違えではなかったようだ。 「え、キャプテンはスコアレスドロー派でしょ?」 「ゴールシーンをまったく見たくないわけでもないんだよ俺だって」 にっこり笑って今度は藤代に答えてやると、右横から乱暴に脚を蹴っ飛ばされた。 「オラ!始まんぞ!」 |
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