再び、この第二談話室で三上と顔を合わせることになるとは思わなかったと水野は思う。 今夜呼び出されたのは水野のほうだった。過去に一度こちらからの呼び出しを受けてもらった経緯があるだけに無碍にもできず、水野は気乗りしないまま、ここへ足を運んだのだった。 「こんなとこ、藤代に見られたらまずいんじゃないですか」 精一杯の嫌味のつもりで水野は言ったが、三上はらしくもなく少し困ったように笑っただけだった。 調子が狂う。 いつも皮肉な笑みを浮かべてばかりいる印象があった。 でもそれは、自分がよく見ていなかっただけで、本当は違うのかもしれない。 そう思っていると、三上が神妙な顔で口を開いた。 「こないだは悪かったよ」 (また謝るのか) 思わず苛立ちを覚えて、水野はわかっていながら刺々しく言葉を返した。 「こないだってなんですか」 「寮棟の屋上で」 やはりそのことかと水野は唇を噛んだ。正直、水野にとってはもう忘れてしまいたい出来事である。 「とんでもねえとこ見せて、逆ギレとか。ねーよな」 自嘲するように三上が言う。水野はそんな三上の表情から思わず顔をそむけた。あのときの気まずい思いが甦る。 「いや、あれは俺が悪かった、です……」 「いやいや、ほんと。言われても無理ねえっての、頭では理解してんだけどな。ちょっと久々だったからさ」 首の後ろに手をやって三上が落ち着かなさげに水野から目をそらした。 そのさまがやはりいつもと少し違うように思えて、水野は少し自分から話をしてみようという気になったのだった。 「周囲からも公認なんだな」 「周囲?」 「笠井。今日、ベンチで」 状況を詳しく説明する気にもなれず最低限の言葉で伝える。三上もそれだけでわかったらしく頷いてみせた。 「ああ、あいつはな。まあ、いろいろあって……。あいつの前ではセーフっつーか……。でも、いっつもあんなことしてるわけじゃなくて今日のは藤代が調子乗り過ぎ」 言い訳めいていると水野が冷たい一瞥をくれてやったら伝わったようで、三上が軽く舌打ちした。 「おーい、なんだその目は。信じてねえな、お前」 三上はやはりどこか座りの悪いようなようすを見せてはいたが、水野から目をそらしたまま、ぽつぽつと語り出した。 「言っとくけどな、俺たちだって最初からこんな堂々としてたわけじゃねえよ」 どうだか、と水野は内心で思う。 三上はともかく藤代は最初から今までちっとも変わっていないんじゃないだろうか。 「絶対ありえねえって思うやつもいるだろうし、そう思うやつの気持ちもわからんでもねーし」 「俺だってきっと、ありえねえって一度は思うだろうな。つか実際、自分でも思った」 それは初めて三上が吐いてみせた弱音めいた台詞だった。 惑う三上の本心が透けてみえる。 三上が自分に対してこんなことを語ってみせるのがただただ意外で、水野は何も言えずにいた。 「でもなあ、もう、そんなこと気にしてる余裕ないんだわ。正直」 三上がそこで初めて水野のほうを向いた。 先ほどまで所在なげにさまよわせていた視線をぴたりと水野のそれに合わせてくる。 「他人からどう思われようが謗られようが馬鹿にされようが、んなことにかまけてる場合じゃねえんだよ。――時間は限られてんだからさ」 その三上の台詞は唐突に、水野の別の領域を揺さ振った。 「俺の言ってること、わかるか、水野」 名前を呼ばれて、声をかけられる。 水野は半ば呆然としていた。 そうか。 そうだった。思い出した。 ここに――武蔵森に来た理由。 父との関係を取り沙汰されようが、贔屓だなんだと陰口を叩かれようが、そんなことはどうだっていいと。 それより求めるものがあって、ここしかなくて、今しかなくて、だから、だから―― 心に決めたはずだった。 『サッカーを好きなのと同じようにあいつが好きなんだ』 今になって、あの日の三上の例えがすんなりと胸に落ちてくる。 あの、どうしようもない感じ、抗えない衝動、感情のままに突き動かされる。 自分はまだ、そんなふうに人を好きになったことはないけれど、似たような想いは知っている。 ふと三上と目が合う。 三上は何か見透かすような、それでいて優しい目をしていた。 あれは、あの台詞は、本当に自分たちのことだけを差して語ったものだったのか。 「なあ、水野。お前さ、もっと開き直っちまえよ。そんでもっとあけっぴろげになれ」 三上が手をひらひらと振ってみせる。 「こんなとこで秘密主義貫いても虚しいだけだぞ」 「それは経験論?」 水野は少し笑って聞いた。笑えるだけの余裕を取り戻していた。 「まあな」 三上もわかったような表情で頷くと笑い返した。 「こんな馬鹿みてえなことですら、俺ら好き勝手やってんだぜ。まして、お前なんて後ろ指差される背中もねえだろうがよ。くだらねー雑音なんか気にすんな」 「気になんてしてない」 「そーかよ。そりゃ失礼いたしましたっと」 肩を竦めてみせた三上がソファから立ち上がる。言いたいことはすべて言い終わったというように。 「俺もう行くわ。確かにお前の言うとおり、藤代に見られたらコトだしな。浮気はほどほどにしとかねーと」 「浮気ってアンタ……!」 反駁しようとした水野に構わず、三上は部屋を出て行ってしまおうとする。いつかのときと同じだ。けれど、 「じゃーな」 そう言って振り返った三上の眼差しは柔らかかった。 水野はその場で一礼し、自室へと戻ってゆく三上の後ろ姿を見送った。 胸につかえていたものが跡形なく消えてゆく。そんな心地を水野は久々に味わっていた。 □□□ 「おっかえりー」 水野が自室に戻ると何もかもをわかったような顔をした笠井が出迎えてくれた。 「たいへんだったねえ。あれ、でも、なんかもう吹っ切っちゃった?」 なんと返していいかわからず、無言のまま、水野が部屋の真ん中に突っ立っていると、笠井はちょいちょいと手招きして言った。 「まあ、飲めよ。俺の奢り。そろそろ帰ってくると思って用意しといた」 差し出された紙コップの中身は自販機定番のコーヒーではなく、温かいミルクティだった。もちろん互いの嗜好を語り合ったことなど一度もない。 かなわないな、掌に移された温もりに水野は思わず目を伏せた。 各々のデスクチェアに腰かけて、紙コップ片手に向き合う。 笠井とこんなふうにあらためて会話するのは初めてだった。もう同室になって数ヵ月が経っているというのにだ。 今さらながら自分自身にどれほど余裕がなかったのかを水野は痛感する。そして己が向け続けた背中を笠井がずっと後ろから見守ってくれていたことも知った。 言葉は自然に口をついて出た。 「俺、あの二人に妬いてたのかもしれない」 「水野、それ、ものすごーく多大な誤解を生むから迂闊に口にしないほうがいいよ。監督泣くぜ。あとお前あいつに殺される確実に」 「あんなふうに、自分たちの気持ちに堂々としていられるなんて」 「うーん、堂々としすぎだとも思うんだけどね」 「だからここのやつらも、あいつらを認めるんだ」 「認めざるを得ないっつーかね、触らぬ神に祟りなしっつーかね」 唐突に心情を吐露し始めた水野を前にしても笠井が動じる気配はない。 武蔵森へ来て初めて肩肘を張らずに他人と対峙している自分に水野は気づいていた。 「笠井も知ってたんだな」 「そりゃまあ。御存知のとおり中等部では藤代と同室だったワケだし」 「いつから?」 「気がついたら、かなあ。藤代ってさ、ああ見えて策士なんだよ。いつのまにか皆、三上先輩は藤代のモンなんだって納得してたっていうか。オーラ出してんだよね、絶えず。そんで三上先輩もまたそれ否定しないし。あのひとの流されっぷりも計算づくな感じがする。末恐ろしいカップルだよマジで。うわ、カップルとか素で言っちゃった。寒!」 笠井は自分で自分の肩を抱いて寒さをこらえるポーズを取ってみせた。 「ああ、もちろん鈍いヤツや命知らずなヤツも中にはいるから? お前みたいな反応するヤツもたまにいたりはしたけど。そいつらも一度知ったらそのうち状況に慣れちゃうし。とにかくあの二人に関わるとロクなことがないってことだけは確か」 「な……」 「水野、お前はもうそれ体感しちゃったあとだと思うけど」 笠井の意味ありげな視線に、水野はがっくりと肩を落とした。 「先に言っておいて欲しかった……」 「だから言ったろ。鈍いヤツも命知らずなヤツもいるって。皆、自分で気づくんだよ」 笠井がにやりと笑う。 本当にここの人間はどいつもこいつも性格が悪い。 「ま、焼肉定食まではいかなかったんだろー。いいじゃん」 「……それ、奢られた人いるのか?」 「いるよ俺」 「えっ……!」 「あれ、聞きたいー? そりゃあ三上先輩のエロいことといったらアナタ……」 「く、くちどめ料なんだろ!喋ったらだめだろ!」 「水野が言わなきゃバレないよ。知りたいだろ、三上先輩に対する藤代クンの鬼畜な所業の数々……」 「バレる! むり! 俺、ぜったい顔に出るから! むりだって!」 両耳を押さえて机に突っ伏すと、笠井が呆れた表情になった。 「うわー、お前そのリアクション、絶好のカモにされんぜー。気をつけろよー? ただでさえ、お前目ェつけられてんのに」 突っ伏した姿勢のまま、顔を笠井のほうに向けて睨みつけた。笠井は思ったとおり、にやにやと笑っている。 「水野クンは妙なところで純情だなあ」 「お前の肝が据わりすぎてるんだと思う俺は」 「そう?」 笠井はまんざらでもなさそうな顔をしたあと、肩を竦めてみせた。 「ま、今でこそ、こんなふうに話せちゃうんだけどね。あんときは事故とはいえ申し訳なかったよ」 「……どっちに?」 「二人に。こっちもビビったけど向こうもめちゃくちゃ狼狽してたもんなあ。あの二人のあんなとこ初めて見た。それで俺のほうが何だか冷静になっちゃってさ。それからかな、こういう状況になったのは」 笠井の目が少し遠いものになる。 「もう水野も気づいてると思うけど、やばいくらい真剣だよ、あの二人」 今度は頬杖をついた姿勢のまま、水野のほうを見て苦笑してみせる。 「堂々としてるのは確かだけど、やっぱり過剰なんだよね、それ」 「過剰?」 「不自然っていうのかなー。意識しすぎるあまり無意識を装うっていうか。開き直った、っていうポーズを取らないとやってけないほど臆病になってる。たまに見てらんないね」 「笠井……お前……すごいな……」 思わず感嘆の台詞が口から出た。自分では及びもつかない考え方だ。 笠井の考察は続く。 「二人ともそういうところは似た者同士っていうか、素直じゃないっていうか。晩生っていうか」 「……容赦ないな」 水野は苦笑した。なんとなく武蔵森ヒエラルキーが見えた瞬間だ。己が現在、その底辺にいるらしいことは認めたくはなかったが、残念ながら事実だろう。将来的には変動させたいと思うが、少なくとも笠井の上にのしあがることは卒業まで待ってもなさそうな気がした。 「水野が入ってきて久々に第三者の視点をもらえたからはしゃいじゃったって感じかなー。愛を確かめ合ういい機会になったんじゃない? って、うわ、また寒いこと言っちゃった。愛て」 「俺にはいい迷惑だったけどな……」 本当はそれだけでもなかったが、とりあえず大袈裟に溜息をついてみせる。 「なあ、笠井。俺さ、頑張って彼女つくるわ……」 「わ。お前のその発言が今、嫌味に聞えないな全然」 疲れきった水野の表情を見て笠井が言う。 「藤代の嫉妬のオーラはそんなにすごかったですか水野先生」 「すごかった」 はは、と笠井が本当におかしそうに笑った。 「三上も、……三上先輩も大変だな」 「いいんじゃない? 結局はそういうとこ含めて好きなんだろうから。つか、あの藤代にそこまで執着されるってのは、ちょっとしたステータスっていうか、悪い気はしないんじゃないかな」 「確かにな」 わかる気はする。 そもそも、藤代が何かに固執するなんてなかなかないことのように思える。 サッカーの神様に始まって、有形無形関わらず、何かを愛するより何かから愛されているほうが似合っている、そんな男だ。 子どものように騒いでいても、どこか飄々としている雰囲気を藤代は持っている。 そんな藤代から、あれほどの情熱を傾けられるのはどんな気持ちがするのだろう。 自分にまで牽制をかけてくるありさまだ。そんな藤代の度を越した執着にはいっそ恐怖すら感じるのではないだろうかと、不意に浮かんだ自らの考えに水野は思わず背筋を凍らせる。 「とは言っても、これ全部俺の勝手な推測だし。結局あの二人が何考えてんだか、俺らにはわかんないけどな」 笠井は何もかもお見通しだという目をして少し笑ったあと、水野に向かって言った。 「ま、これから三年間――あ、三上先輩が卒業するまでだから二年間か、よろしくしてやってよ」 □□□ 「というわけで」 「何が、というわけ、だ」 三上がすでにお馴染みになった第二談話室のソファから水野を見上げる。 三度目の呼び出しをかけたのは水野のほうである。以前と同じく三上は承諾した。しかし今回は前回に比べて若干、不機嫌そうだに見える。隣りに同じように藤代が呼び出され、並んで座らされているからだろうか。 藤代は藤代で、なぜここに二人揃って呼び出されたのかわからないという顔をしている。 今、場の主導権は水野にあった。 「三上先輩。僕は理解しました」 水野は慇懃な態度で口にする。 「入学以来、僕の先輩に対する態度に問題があったことは認めます。今後は後輩としての節度を保ち、先輩を敬愛する心を忘れぬよう……」 「気色悪いこと抜かすな。何が言いたいんだよ」 水野のわざとらしい態度がさも不愉快だというように眉を顰めて遮り、三上が結論を促がした。水野は肩を竦めてみせる。これは笠井の真似だ。 「だから不可侵条約をここに締結しますよって話。……です」 「ふかしん……?」 三上の隣りで藤代が首を傾げる。 だが、当の三上が言葉の意味を理解しているようすなので、水野は構わず続けた。 「ただこれは藤代から一方的に締結を迫られた不平等条約と言ってもいい代物です」 自分の名が出てきてもピンとこないようで、藤代はまだわからないという顔をしている。 三上はやや目を眇めて、水野を見上げている。 大人しく続きを待っている二人に水野は告げた。 「というわけで僕は不平等を平等にすべく、これから代償をいただこうと思います」 そこまで言うやいなや、水野は三上の胸倉を掴んだ。そのまま屈んで顔を近づける。 「ちょ! 水野……ッ」 事情はわからないなりに水野が何をしようとしているか察したらしい藤代が二人の間に割って入り、水野の手を掴む。素晴らしい反射神経だ。そこで水野はにっこり笑ってぱっと手を離し、――止めようと近づいてきた藤代を頭ごとがしっと捉え、三上の眼前で次なる行動に及んだ。 「なっ………」 「―――!」 その行動の結果に声を上げたのは三上だけだ。藤代の声は上がらない。というより、上げられなかったと言ったほうが正しい。 なぜなら水野がその唇をしっかりと塞いでいたからだ。 「もっと何かあるかと思ってたけど、案外普通だな」 水野は濡れた唇を拭って平然と呟いた。 時間にしてほんの五秒。 当然、舌など入れていない。ただ、唇と唇を接触させただけだ。 しかし藤代は未だに放心している。エースストライカーのこんな姿、なかなかなお目にかかれるものではない。水野はいたく満足した。 三上はさすがのポーカーフェイスだったが、平静を取り繕おうとしているのが丸分かりだった。これにも水野は満足した。 先に口を開いたのは、なんとか立て直したらしい三上だ。 「……おい、そりゃちっと高すぎる代償じゃねえの? 取り過ぎだろ。平等にするつもりが不平等になってんじゃねえか」 「慰謝料だと思ってくだされば」 「それでも高い」 もう三上は不機嫌を隠そうとせず、眉を顰めて呟いた。 「そう思ってるんならさ」 水野は一度手放した三上の胸倉を再び掴んで、挑戦的な笑みを浮かべてみせた。 「カッコつけてねえで、アンタも本気で獲りに行けよなってこと」 「言うじゃねえか」 対峙する三上もまた口の端で笑った。けれど、その表情にはどこか図星を突かれたような弱みがあって、水野は笠井の言葉を思い出す。 『もう水野も気づいてると思うけど、やばいくらい真剣だよ、あの二人』 『開き直った、っていうポーズを取らないとやってけないほど臆病になってる。たまに見てらんないね』 ほんと見てらんないな、水野の笑みが苦笑に変わる。 水野の表情の変化を敏感にさとったらしい三上が、ばつの悪そうな顔で目を背けた。 なんだかその仕種が存外可愛らしく思えて、水野はなんとなく笠井の気持ちを理解できるような気がした。よろしくしてやってよ、そう口にした笠井の心情を。 「何考えてんだよー! 水野の馬鹿ー!!」 ようやく衝撃から立ち直ったらしい藤代の怒声が響き渡って、すぐにそんな感傷は消し飛んだのだけれど。 藤代は涙目になっていた。 「オレ、別に男が趣味ってわけじゃないから!」 「俺だって趣味じゃない」 「だったらなんであんなことするんだよー! もー、信じらんない!」 余程ショックだったのか、泣き喚く藤代を見て水野はすっかり優越感に浸っていた。 三上はそんな自分たちのさまをソファに座ったまま、呆れたように眺めていたが、ふと何かに思い当たったような微妙な表情をしてみせた。 そして言おうか言うまいか、少し迷ったような顔をしたあと、水野のほうを見上げて。 「なあ、なんでもいいけど、お前、今のが、あー、えーと、いわゆるファーストキスだったんじゃねえの?」 「―――」 今度は水野が固まる番だった。 あちゃあ、と三上は額に手をやる。藤代も泣き喚くのをぴたりとやめた。 「ち、違う!」 慌てて否定するが、最初の反応がすでに認めてしまったようなものだ。 三上は面白がるより本気で気の毒がっている表情で、同情の視線を水野に向けてくる。 「ご愁傷さま」 「違うって言ってんだろ!……あ、じゃなくて違います!」 「ほんと後先考えずに行動する癖、いい加減なんとかしろよなー」 「う……」 まったくもって言い返す言葉がない。 二人をやりこめることに夢中で、自分の取った行動の意味することをちゃんと理解していなかった。痛恨の極みだ。 一転して元気になったのは藤代である。 「あはは。水野の初チッスの相手はオレか〜」 先程までの狼狽ぶりが嘘のような能天気さで藤代が笑った。だが、その背中に冷えた声がかけられる。もちろん三上だ。 「あははじゃねーよ。俺の目の前でお前何したかわかってんのか浮気者」 「え!ちょッ!待って待って!あれは水野が先輩にキスしようとしてるんだと思って!それを止めようとしたら水野が勝手に……!」 必死に弁解する藤代に対し、三上は冷たい一瞥をくれるだけだ。 「言い訳は聞かねえよ」 「あんなの、事故みたいなもんじゃないですか! 浮気じゃない!」 「知るか」 「ちょ……ッ! どうしてくれんだよ水野! 責任取れよな!」 矛先はすぐにこちらに向いたが、水野はすました顔で答える。自ら招いたこととはいえ、キス初体験喪失の八つ当たりもふんだんに含んだ口調で。 「すでに僕と貴方がたとの間には不可侵条約が締結されておりますので、僕は不干渉の立場を取らせていただきます」 「言ってる意味わかんないし!」 ぎゃんぎゃん吠える藤代の後ろで、三上がこっそり溜息をつくのが目に入った。しかし目線は甘く、藤代に向けられている。やれやれだ、と水野は思った。 「つまり……」 水野は大きく息を吸った。 「勝手にしろバーカ!!! ――ってことだよッ」 後日談。 噂は千里を駆けた。 「聞いたよ〜。水野ク〜ン」 「藤代にチッスかましたんだって?」 「三上先輩とはポジションだけじゃなくてエースまで取り合う仲か」 ロッカールームで着替える水野の背中に口々に声がかけられる。 やかましいことこの上ない。 振り返った水野の眉間はこれ以上ないというくらいに寄せられている。 「うるせえよ。お前らにもチューすんぞ。もう俺に喪うものは何もねえんだからな」 ドスのきいた声とともにきつい一瞥をくれる水野だったが、しかし周囲に怯んだようすは微塵もない。むしろ調子づいたように、面白がって口にする。 「あはは。水野ならオレいーかも」 「オレもオレも」 「おー、いい度胸じゃねえか。よーし、歯ァ食い縛れ」 「チューじゃなくてグーじゃんソレ!」 じゃれあう下級生たちを見て今度はそれに上級生たちが絡む。 「あらら、お坊ちゃんもすっかり武蔵森に感化されてしまいましたなあ」 「口調まで三上になってるし」 「大事な箱入り息子の目つきがあんなに悪くなっちゃって。監督泣くぜー」 「目つきが悪いのは元からだろ」 しかしもうそれでたじろぐような水野ではなかった。 「先輩方」 にっこりと水野の凶悪な笑みが上級生たちに向けられる。 「聞こえてるんですけど?」 「聞こえるように言ったからねえ」 下級生だけで騒いでいたのが、今度は上級生も巻き込んでのじゃれあいに発展している。 そこからまた少し離れて、黙々と着替えを続ける三上の横に渋沢が立った。 「計算どおり、か? 三上」 「……てめえ、何笑ってんだよ。ムカつく」 「本当に面倒見のいい先輩だよ、お前は」 渋沢の含みのある声音に三上は苛立たしげに舌打ちしてみせた。 「人がよすぎて大事なエースまで盗られないように気をつけろよ」 「るせえよ、ほっとけ。本来ならお前の仕事だろコレ」 「いや、俺、今キャプテンじゃないし」 「実はそういうやつだよな、お前って」 三上は渋沢を横目で睨め付けた。が、渋沢はいたって飄々とした態度を崩さず答える。 「俺じゃ、何言ってもあいつはただ神妙になっちゃうだけだからダメだよ」 「わーってら」 「だからわざわざ役目、買って出てくれたんだろ?」 「……おかげで藤代がうるせーのなんのって」 「その藤代だが、あいつももうすぐここに戻ってくるな。最近は監督も諦めたのか、説教時間が日を追うごとに短くなってきてる」 「めんどくせえな。鉢合わせねーうちに退散するわ俺」 「残念。一歩遅かった」 渋沢が微笑とともに肩を竦めてみせる。 「なになに、なんの騒ぎー?」 ロッカールームの扉をがらりと開けて、弾丸よろしく藤代が飛びこんできた。 噂の人物登場でさらに場は盛り上がる。 逃げようとして、三年の先輩に目敏く見つけられてしまった三上もその渦中へと強引に引っ張りこまれた。 「これじゃ不可侵どころか……」 騒ぎの合間に、こっそりとこぼされた水野の呟きを拾った三上はにやりと笑ってその耳元に囁いた。 「思いっきり侵略してくるだろ」 「条約なんて無意味でしたね」 「これが武蔵森ってやつ」 「ようやく理解しました」 「ちょっとそこ! 何こそこそ話してんの!」 二人の会話を見咎めて、すかさず間に割って入った藤代に、腕を回して肩を組むと三上は笑ってみせた。 「これからもよろしくな、って話」 |
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