ピアノソナタ
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「誠二なら買い物行きましたよ?」
 普段は前を通りすぎもしない後輩の部屋なのだが、今日は事情が違った。
 迎えに行きますね、と満面の笑みで三上に本日の約束を取りつけたはずの藤代がいつになってもやって来ない。
 貴重な休日だ。
 本当は藤代の強引な誘いなど無視してもよかったのだが、それができないのが三上だった。
 そうして律儀に待って待って待ち続け……それでも顔を見せない藤代に痺れを切らして、部屋を訪ねたらこれだ。
 藤代の姿はカケラもない。部屋には同室の笠井だけが残っており、扉を開け三上の姿をみとめた途端、名を出しもしないのに彼は藤代の行方を告げた。
「………」
「すっぽかされましたね、誠二に」
 不機嫌さを隠しもしない三上に怯むことなくトドメの一言をあっさりと。
「もーいい。……いつものことだ」
 かえって怒りを爆発させるタイミングを逸らされて、ただ残った疲労感に三上は首を項垂れた。
 そこでふと部屋から控えめに流れてくる音楽に気づく。
「……ナニ聴いてんの?」
「クラシックです」
「それくらい俺にもわかる」
 ちょっとムッとして見返すが、やはり笠井はどこ吹く風という表情で。
「ピアノソナタですよ」
 意外だな、と三上は思う。それが顔にも表れていたのだろう、笠井は少し苦笑してみせて「入ります?」と扉を大きく開け、部屋の中へと促した。



□□□



 三上が藤代と笠井の部屋に入ったのは実はこれが初めてだった。
 寮では一方的に藤代が三上たちの部屋に遊びにやってくることばかりだったので、こんな機会はなかったのだ。
 思ったより片付いた部屋だった。
 普段の藤代の生活ぶりから見て、もっと散らかっているかと思っていたのだが。
 机の上は整然としていて必要最小限のものだけが置かれている。
 ほかの大多数の寮室のように床に物が散乱していることもない。
 なんだかここが藤代の部屋とは思えなかった。
 ただ壁にかけられた制服のシャツの袖に刺繍されたイニシャルと、ベッドの上に脱いだまま投げ置かれているTシャツとハーフパンツだけが見覚えのあるもので。
「……へんなカンジ」
 ぽつりと呟いた三上に笠井が声をかける。
「適当に座ってくださいね」
 そう三上に勧めたあと、笠井はデッキの置かれた窓際へと歩み寄ってゆく。
 三上も座らずに笠井の隣りに立って、たぶん笠井の領域と思われる棚を眺めた。
 CDラジカセの横に並ぶプラスチックのケースのタイトルを目で追ってゆく。
 ベートーベン。ショパン。ドビュッシー。音楽の授業でお馴染みの名前。
 三上が知らない名前もたくさんあった。
「藤代の、なワケねーよな」
 藤代が音楽を聞かないのは三上も知っていた。
 今時の中学生にしては珍しくCDの一枚も持っていないのだと、前に誰かがからかうように言っていたのを思い出す。
 ましてやクラシックなんて、まるで藤代のガラではないから。
「これゼンブ、お前のか」
「そうですよ」
「高尚な趣味だな」
「そんな大袈裟なものじゃないですよ」
 大切なものを扱う手つきで笠井が中の一枚を取り出した。
「サティ。これなんかオススメです。きっと先輩も聴いたことあると思いますよ」
 心なしか楽しそうにも見えるようすで、笠井がCDを取り替える。
「あ、ホントだ」
 耳に覚えのあるメロディが流れ、クラシックというには軽やかなイメージだ。
「俺、コレ好きかも」
「誠二もそう言ってました。これが一番好きだって」



「藤代も聴いたりすんの……?」
 三上の表情に、笠井がニコリと笑った。どこか藤代を思わせる笑みだった。
「先輩が知らないコトはたくさんあるんですよ?」
「………」
 それは確かにそうだろうな、と思う。
 寮の同室者とはいちばん長い時間を共にするのだ。
 三上だって渋沢の、ほかの誰もが知らないようなことを知っているし、三上自身も他人には隠しておきたかったことを、渋沢にだけはたくさん知られてしまっている。
 多かれ少なかれ寮の同室者とはそういう繋がりができるものだが。
「三上先輩は知らないでしょ」
 笠井が言うのはそういうことじゃない気がした。


「誠二のことも。――俺のことも」


 途切れないメロディは午後の緩慢な空気に相応しいものだと思えた。
 窓から差し込む光も、ピアノの音色も、笠井の微笑も、すべてが柔らかくて。
 三上は思わず目をすがめる。


「……藤代はあんまりオマエのこと話さないから」
「そうでしょうねェ」
 三上の言葉に笠井は何か思い当たる節があるのか、ひとり楽しそうに笑った。
「誠二も俺に喋ってくれませんよ、三上先輩とのこと」
「………」
 三上先輩とのこと、などと意味深な言い方をされて三上は少しだけ赤くなる。
 藤代と自分の、所謂フツーではない関係は、それぞれの同室者、渋沢と笠井には知られてしまっているから今さらと言えば今さらなのだが。
 一方で、けして口が固いとは思えない藤代が、笠井にも何一つ話していないというのは少し意外だった。
 いつもは放っておいたら寮中に触れ回りそうな勢いなので、その度に三上は何度も藤代に釘をささねばならなかったというのに。
 当然、笠井にはある程度のことは知られているだろうと覚悟も決めていたのだが。
「あいつね、ああ見えて、ものすごく用心深いですよ。頭イイやつだから」
 くすくすと笠井が声を立てて笑う。
 さっきから本当に彼は楽しげだった。
「でも今日は失敗だったかな……」
 そう独り言を呟くように言ったあと、不意に笠井は横向くと流れるような動作で三上の唇へと口づけた。
 瞬く間もない、掠め取るようなキスだった。


「試してみます?」


『俺のことも』
 笠井の瞳が言外の台詞まで伝えてくる。


(コイツは……)

 うっすら笑った笠井の表情に、三上は思う。
 コイツはとんでもない悪党だ。
 大人しそうな顔をして。
 藤代と同等のタチの悪さ。
 さすがルームメイトと言うべきか。


「誠二と比べたっていいですよ?」
「やけに自信ありげだな……」
「そういうワケじゃないですよ」
 笠井が苦笑する。
 それは本音のようで、自信がある云々ではなく、ただ笠井は本当に言葉のまま、自分を比較対象の材料にしていいという意味で言ったらしかった。
「……なんのつもりだ」
「この際だから俺のことも少し知ってもらおうと思って……」
「合意取るワケか」
「さすがに俺は誠二と違って、この姿勢から先輩を押し倒すっていうのはムリなんで」
 心持ち三上を見上げるようにして笠井が言った。
「じゃ、俺がお前を押し倒すってのはアリなんじゃねえか?」
「――やってみます?」
 笠井が艶やかに笑う。
「………」
 なんだか、深みにハマらされている気がする。
 含みを持った言葉の応酬。
 藤代のような強引さがない分、笠井はずいぶん駆け引きに長けていて、それが三上には馴れなくて。
「別に俺は先輩ならどっちでもいいんですけど」
 そんな台詞を嘯く笠井に、三上はどうにも逃れられないような予感を感じ始めた。
「でも先輩は抱くより抱かれる方が好きですよね?」
「……なんで決めつけるかな」
「なんとなく」
 ふわりとした笑みの底に、得体の知れない何かを潜ませて。
「俺も三上先輩のこと知らないから。なんとなく、ですよ」



□□□



 ずっと前に演奏が終わってしまったCDを笠井が取りかえるのを、ベッドで俯せになったまま、三上は横目で見ていた。
 窓から差し込む午後の陽の光に照らされた笠井のシルエットは細身と言ってもいいくらいなのに、どこにあんな力が潜んでいるんだろうと三上はぼんやり思う。
 手首を掴まれるあの感触、力強い手には覚えがあった。
(似てる……な)
 左の手首を指でなぞるようにしていると、
「今、思い出してましたね。誠二のこと」
 穏やかな笑みを浮かべた笠井がCDをセットし終えて戻ってきた。
「怖いよオマエ……」
 伸びてきた笠井の指先に前髪を梳き上げられて、三上は大人しく目を伏せる。
 結局のところ、このひとつ年下の後輩にはずっと翻弄させられっぱなしで。
 そう変わらない体格や腕力の差など問題ではなく、もっと別のところで三上はかなわないという思いにさせられたのだった。
 人の心を読む術に長けているというか、逃げ場を塞ぐのが彼は上手い。

(ああ、だからDFなんてやってんのか)

 そんなふうに納得して、再び流れ始めた音楽に耳を傾ける。
「……コレなんて曲?」
「―――」
 耳慣れない言葉を笠井が口にした。そのせいで三上にはちゃんと聞き取れなかったけど、次のセリフははっきりと耳に届いた。
「誠二が嫌いな曲ですよ」


 しばしの沈黙。流れつづけるピアノの旋律。


「……俺は好きだな」
「奇遇ですね。俺もですよ」





 近づいた笠井と口唇を重ねて浅い口づけを交わしながら、三上はこの日初めて笠井と微笑みあったのだった。




















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