約束
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 かかってきた電話の向こうで、渋沢はすまなそうな声で言った。
『てっきりもうお前の方からは話してあると思って』
「ああ、もういいって。バレたことだろ。話してなかった俺が悪い。気にすんな」
『帰ってないんじゃなのか? 水野』
 なんてカンの鋭い男だろう、と三上は思いながら、受話器を肩と耳で挟んでシャツの袖を捲り上げると、腕の時計に目をやった。
「んー、でも心あたりはあるから」
『本当にすまない』
「だから謝んなって。それよかチケット、ちゃんと俺の分も取れてんだろな?」
『ちゃんとマネージャーに言付けておいたよ。彼は優秀だ』
「なら安心だな。じゃ、また電話する。今度はこっちからな」


 受話器を置いて、一度大きく三上は息を吐く。
 静まり返った部屋に壁掛けの時計が秒針を刻む音がやけに響いた。
 半時間ほど前に用意し終えたキッチンのテーブルの上の夕食の用意を見やって、三上はうんざりする。料理は時間が経つほどに不味くなるのだ。
「人の苦労をムダにしやがって」
 三上は腹立たしげにラップを取り出し、それで料理の盛られた皿を覆っていった。火の元と戸締りを確認し、キーボックスから部屋の鍵を取る。
「行動が見え見えなんだよ、あのバカ」
 チッと舌打ちして、三上は椅子の背もたれにかけてあったスプリングコートを羽織る。
 そのまま部屋を出てエレベーターで階下まで来たとき、傘を忘れたのに気づいた。
 眺めやった外は霧雨。
「止むだろ、すぐ」
 自分に言い聞かせるように呟いて、三上はマンションのエントランスを走り抜ける。


 タクシーを呼べばよかったと気づいたのは、目的地についたあとだった。
 つまりは自分も動転していたということかと三上は苦い気持ちで思って、寺の敷地内へと入って行った。



□□□



「いらっしゃい」
 彼はそう言ってニヤリと笑った。
 三上の来訪は予測済みで、待ってましたと言わんばかりの風情だ。
 三上は何と答えていいかわからず、言葉に詰まってしまう。

 正直、この関西弁を喋る、髪を金色に染めた男が、三上は苦手だった。
 飄々としていて掴みどころがない。
 いつもどこか人をくったような笑みを浮かべていて、なんというか同世代なはずなのに役者が違うと思わされるのだ。
 彼――佐藤成樹は、三上の知っている同年の知り合いの中で誰よりも大人びていた。
 たぶん水野とのことがなければ、こんなふうに会話を交わすこともなかっただろう。


「……水野は」
「来とるよ」
 全身を細かい雨に降られて濡れた三上を上から下までジロジロと眺めやってから、佐藤は短くそう言った。
 三上について何か言いたそうだったが、言うだけ無駄だと思ったのか、呆れたような溜め息をひとつついて言葉を続ける。
「なんやデカイ荷物持ったままな。『家出か』て聞いたら、キッツイ目で睨まれたわ」
 佐藤がそう言って苦笑する。
 遠征帰りなんだよ、と三上はボソボソ答えて目線を下向けた。
 確かに家出には違いないが――いずれにせよ、あまり恥ずかしい真似はやめてもらいたいものだ。その度に迎えに行くこちらの体面というものも考えて欲しい。
 佐藤がそばの傘立てからビニール傘を一本取り出して、三上を促し外に出た。
「まーた道場の方にお篭りしとんねん、アイツ」
 三上もその傘に入れてもらって、二人で寺の境内を横切るように歩いてゆく。
 並んで歩く佐藤の肩の位置は三上のそれより拳二つ分くらいは高かった。
 確か昔はそう変わらなかったように記憶しているのだが――もっとも彼と今ほど面識があったわけではないので、それも曖昧だ。
「遠征、名古屋やったっけ?」
 三上に尋ねなくとも知っているくせに、確認するよう佐藤が言った。
「名古屋だよ」
「そら、波瀾の匂いがするわなァ」
 意味深な台詞を口にして、佐藤が笑う。
「名古屋といえばな、今度カップ戦で当たんねん。一回戦。その頃はまだ日本におるんかいな、奴サン」
「たぶんな」
「残念やわ。ラクに点獲らせてもらお、思とったのに」
 そう言いながらも佐藤の目には挑戦的な光が浮かぶ。相手が強ければ強いほど燃えるのはこの男の昔からのサガらしい。佐藤が所属するJ2のクラブチームでの戦いっぷりを何度か見て、それは三上にもわかってきていた。


「鍵はかかっとらんと思うけど、一応コレ」
 そう言って佐藤から鍵を手渡される。
 境内を横切って少し離れたところに、その建物はあった。
 町内のちょっとした集まりや青少年団体の簡易合宿所として使われることが多い板張りの道場は、以前にも「家出」を決行した水野が篭った場所だ。
 三上が足を運ぶのはこれで二度目になる。
「ほんでも今度ばかりは重症っぽかったで」
 佐藤が口調はからかうように、けれど目は笑わないまま、そう言った。
「アンタの名前ちょっと出しただけで、泣きそうな目、しよった」
「………」
 三上は黙って佐藤を見返す。
 先に場を崩したのはやはり佐藤だった。三上の肩をポンポンと叩いて。
「タツボン、潔癖やからなァ。自分、なんや怒らせるようなマネしたんちゃうん?」
「……怒らせるようなマネ?」
「あんましヘンなプレイは控えたほうがええで、旦那」
「―――」
 これにはさすがに三上も閉口した。というより、受けた衝撃に石像のごとくその場で固まってしまう。
 そんな三上に佐藤がらしくもなく焦ったように言った。
「アレ? ちゃうんか? なんかヘンなこと言うてもた?ってか、お前らホンマはどっちや?」
 どうやら激しい誤解があるらしい、と三上は思ったが訂正するわけにもいかなくて、ただ脱力して俯くばかりだ。
 すると不意に佐藤が三上へと顔を近づけて。
「タツボンは寂しがりィやから……慰めたってや」
 その身体で、と耳元で息を吹きかけられるよう囁かれ、三上は思わず耳を押さえて飛び退った。
 佐藤はニヤニヤ笑っている。
「心配せえへんでも、どっちがどっちかくらいはわかっとるよ」
 まったく食えない男だ。
「風邪ひきなや」
 そんな言葉とともに赤面したままの三上を残して、傘をクルクル回しながら来た道を戻ってゆく。
 佐藤の背中を見送りながら、三上はあの男だけにはかなわないと思った。
 風祭にしろ、この佐藤にしろ、どうも元桜上水側の人間と対峙すると調子が狂う。
 武蔵森のようなある種、密着した身内意識がない分、彼らは他者に対する門戸が広く、三上を内と外で線引きしたりしない。
 その気安さが新鮮な反面、三上にはまだ慣れないのだった。



□□□



 前触れもなしに引き戸を開ける。鍵はかかっていなかった。
 水野は戸口からいちばん離れた奥の板壁に背をもたれて、うずくまるように座っていた。
 表情はまったく見えない。見慣れた色素の薄い髪だけが腕の間から覗いている。
「何やってンだよ」
 靴を脱いでペタペタと歩いて水野に近づいてゆく。三上の気配に気づいてないはずはないのだが、水野は何の反応も示さなかった。
「何やってンの」
 もう一度問いかけて、自身の立てた膝に顔を埋めたままの水野を三上は見下ろす。

 こうしていると本当にガキだ。
 駄々をこねて、それが受け入れられないとすねている子供そのものだ。

「別に」
 俯いたままで答える水野のくぐもった声。
「前から言おうと思ってたけど、お前な。あいつの、佐藤の好意にちょっと甘えすぎだぞ」
「アンタはどうなんだよ、渋沢に」

 三上は無言のまま溜め息をつく。
 本当にかわいくない。
 渋沢と自分の関係が、水野たちとのそれとは違うことをどう説明するべきか。
 いや実際には似たり寄ったりなのかもしれないが、水野たちの場合、どうしても佐藤が大人な分、比重のバランスが片側に傾いているような気がするのだ。
 確かに自分は渋沢に頼っているけれど、彼に頼られている面もちゃんとあると自負している。
 水野はどうだろう。

「立てよ。帰るぜ」
「イタリアでもスペインでもどこでも行けばいい」
「………」
 やはり本題はソレか、と三上は思う。
 名古屋の渋沢から謝りの電話が入ったのも、水野が遠征先からまっすぐに帰ってこなかったのも、すべてはそれが原因なのだ。


 置いていかれることに本能的な恐怖を示す子供。
 比類なき才能を持ちながら、いつも彼は自分が見捨てられるのではないかと怯えている。
 幼年時代の記憶はそう簡単に癒されることはないのだと思い知らされて、三上は一瞬だけその表情を曇らせる。
 続いて自分が加担した件も否応なく思い出されて、見られているわけではないのに、三上は握り締めた拳をそっと背中の後ろに隠した。
 水野の傷は、そのまま三上のトラウマでもあった。
 水野に対する罪悪感が消えない。だけど――


「お言葉どおり、どこでも行かせていただきますケド、――とにかく今は帰ろうぜ。部屋に」



 罪悪感のみに囚われて、そばにいるのだとは思いたくなかった。





□□□



「アンタのそういう年上ぶったところキライ」
 嫌いも何も年上だろうが、だいたいテメエのそのガキっぽいとこが俺だって大キレーだ、と三上は喉元まで出かかった言葉を抑えて。
「帰ったら、ちゃんと話すから」
 そこで、水野がようやく顔を上げた。
「何を話すっていうんだ?」
 意志の強い瞳。
 強情を張る子供のようでいて、そこに湛えられた光はひどく澄んでおり、なせが三上はその瞳に痛々しいものを感じた。
 思わず目を眇めて、三上は水野を見る。どうして彼はこんなにも強くて脆い。


「ちゃんと理由があるんだよ」
「そんなことわかってる。アンタが理由もなく行動することなんてない」
「先に言わなかったから怒ってンの?」
「そんなんじゃない」
 水野がふいと横を向く。三上は苦笑した。
「渋沢に聞いたろ? いい話なんだよ。あっちで東洋人の研究生受け入れてくれるなんてトコロ、やっぱりまだあんまりないんだ。渋沢のオマケみたいな扱いだけどさ、でもやっぱりチャンスはチャンスなんだよ。わかれよ水野」
「俺に反対する権利なんてない」
「『権利』とか持ち出すなって……。お前の気持ちが聞きてーんだよ。いいからこっち向けバカ」
「アンタにバカなんて言われたくない」
 水野が唇を噛んで三上を睨む。
 三上は佐藤の言ったことを思い出して、また苦笑しそうになった。


『泣きそうな目、しよった』


「……お前に」
 出来得る限りの優しい声と穏やかな表情で三上は言った、心から。
「お前に相談しなかったことは謝るよ」
「謝る必要なんてない。俺には関係ない。アンタの言うことは信用できない」
「ヒトが珍しく殊勝に謝ってんのに否定するかオマエは」
 子供をあやすように水野の前髪に手を伸ばし梳き上げてやる。
 水野は悔しげに噛んだままの唇を緩めない。でも三上の手を振り払うことはなかった。
「……なんで日本じゃダメなんだ」
「そんなこと、お前がいちばんよく分かってるだろ? もっとこの分野ちゃんと勉強したいんだ。日本じゃ足りねえんだよ。人も教材も実績も」
「で、歴史もか? ……マスコミみたいなこと言うんだな」
 吐き捨てるように言った水野に三上は即答を返す。
「事実だろ」
 本当に誰よりもよくわかってるはずなのだ、水野は。マスコミなんかに叩かれなくても、水野たちがいちばんに世界との格差を日々体感している。


「お前が来るの、待ってるよ」
 三上は小さな笑みを浮かべて水野を見た。
「そういうワケか……」
 水野がようやく納得がいったというような顔になり、そしてますます眉間をキツク寄せる。
「そんな言い方はズルイ」
「でもそれも事実だから」
 また睨み返される。意外に反応がストレートなんだよな、と三上は内心で苦笑をもらしながら。
「自信ねえの?」
 海外移籍、と言外に伝えて、挑発する笑みを浮かべてみせたら、すぐに答えは返ってきた。
「まさか」
 水野の瞳に剣呑な光が煌く。
「今のままじゃ相当努力しなきゃムリだよな。まず身体作って語学ベンキョして……っと、それはお前の得意分野か」
「わかったから黙れ」
 水野は煩わしそうに前髪を掻き上げると、三上の腕を乱暴に掴む。
「待ってるぜ」
 引き寄せられ近くなった水野の薄い色の瞳に向かって、三上は言った。
「約束……」
 『する』だったのか、『しろ』だったのか。
 それは言いかけた三上にもわからなかった。
 ただ貪るように口づけてきた水野を受け入れ、その舌が深く自分を侵食してゆく感覚に目を閉じる。
 ようやく唇が離れて――再び顔を合わせた時には、水野の瞳はいつものそれに戻っていた。



□□□



「ところでアンタ、なんでそんなに濡れてんの?」
 水野が今気づいたというように、三上のしっとりと濡れた髪に触れた。
「……誰のせいだと思ってやがる」
 そういえば着ていた薄手のコートもすっかり湿ってしまっている。
 霧雨とはいえ、マンションからここに来るまでの間、ずっと降られっぱなしだったのだ。
 広々とした道場で、三上は急に寒さを覚える。
「俺のせい?」
「そーそー。突然、家出なんかかましやがる、てめえのせいだ」
 家出という単語に反応してまたスネるかな、と三上は思ったが、予想に反し、水野は何か考える素振りを見せたあと。
「あっためてやるよ」
 他意はないという口調で水野がそう言った。そのあまりに自然な表情に、三上は一瞬対応が遅れる。
 コートのボタンを外されて前をはだけられる。そのまま、中に着ていたシャツの胸元を掴まれ引っ張られた。
「な……ッ」
 バランスを崩して、三上は水野を挟みこむような形で両膝を床につく。
 その間も水野は手を止めることなく、三上のシャツを引き出し、ベルトを外す。
 躊躇いもなく水野の手が差し入れられて、三上はビクリと背を震わせた。
「ちょっ……待て待て待てッ」
 別れ際の佐藤の意味深な笑みが脳裏に浮かぶ。
 このまま流されては本当に彼の言ったとおりになってしまう。それだけは何としても避けたい。これ以上、何もかも佐藤に見透かされるのはゴメンだと思った。
「おい……やめろよ」
 なぜか小声になりながら、三上は咎めるように言う。
「やめろって水野……」
 名前を口にすると少しだけ反応した。
 三上を見上げる水野の瞳は不思議そうで、幼い子供を思わせる。
 それに一瞬戸惑いながら、三上がどう宥めようかと思案を巡らせていると。
「動かないで」
 そう言った水野の唇が。


 ――行カナイデ。


 そんな言葉を伝えてきてるような錯覚に三上は陥り――あとはもう触れてくるだけの水野に逆らえなかった。





□□□



 膝を床に、手を水野の背後の板壁についた自分の姿勢に、何やってるんだろうと三上は思った。
 俺はコイツを迎えに来ただけのはずなのに、と目の前のワガママな子供を見つめる。
 ここで手酷く突っぱねてみせたら、きっとまたスネて手がつけられなくなるから。
 仕方なく自分は身体を与えるのだ、コイツを早くここから連れ出すために、三上は自身にそう言い聞かせながら、さらわれそうになる意識を必死に繋ぎとめる。
 水野は元から抵抗などないと思っているのか、三上の着衣を解く手にも淀みがない。
「……ッ」
 触れられた三上が息を詰めた瞬間、水野がようやく手を止めてこちらを見上げてきた。
 そのまま黙りこくる水野に、三上は眉を顰める。
「……なんだよ」
「―――」
 わずかな間のあと。
 三週間ぶりだ、そう言ってようやく水野が小さな笑みを浮かべて見せた。
 彼のそんな表情は三週間ぶりどころじゃない、本当に久々で――三上は、こんなことをされているのに、それを目にして嬉しいと思っている自分自身を呪って落ち込みそうになる。重症だ。どうしようもなく。
「も……ヤりてえんだったら、ちゃんとマンションの方、帰って来いっての……」
「本当はそのつもりだった」
 文句を逆に恨み言で返されて、三上は黙るしかなくなる。
 水野の手がいよいよ三上の弱いところへ触れて、うまく言葉を返せなかったせいでもあった。
「ッ……」
「声出してもいいのに」
 聞こえないよ。きっと聞こえてもシゲは知らんぷりしてくれるよ。
 水野の目がそう言っているが、素直にハイそうですかと頷けるはずもなかった。
「うるせえ」
 それだけの悪態をやっとのことでついて、三上は唇を噛み締める。



 冷静に見つめてくる水野の視線が痛いと思った。
 彼はいつもそうだ。
 三上ひとりを翻弄して追い上げて、その透明過ぎて感情の底が見えない瞳で凝視する。
 その瞳はそんな行為とは無縁であるかのように澄んでいて、余計に三上をいたたまれない思いにさせた。


 雨に濡れて冷えきっていたはずの身体が内から熱を帯びてゆく。
 最初、三上の背筋を竦ませた水野の冷たい掌も、今ではかえってその冷たさが火照った肌に心地よく、触れられるたび三上は感じて震えた。
 実際、今まで水野の手に触れられて、感じないことなんてなかった。


 高められてゆくカラダ。
 死んでも見せたくないと思っている相手にその姿を見せる矛盾。
 それすら快感に感じられるようになってしまっている。



 声だけは何としても漏らすまいと唇を噛み締める三上に、水野はからかうでもなく嘲るでもなく、ただ淡々と行為を続ける。
 その掌が不意に三上の思わぬところへと伸ばされた。
「おい待て……ッ」
「どうして?」
 水野の手は止まらない。躊躇いもなく指先があてがわれる。
「そっちは……ダ…メ……ッ」
 息を詰めてやり過ごす三上を、水野はやはり冷静な目で見つめていた。
 壁についた両手を思わず三上は握り締めて、目を伏せ眉間を寄せる。
 水野の指先が奥を侵食してゆく感覚。
 慣れているはずなのに、自身でその体重を支える今の姿勢では、ほんの少し身じろいでも鋭い刺激となって返ってくる。
「アッ……!」
 中で動かされた水野の指に、堪えきれず三上は初めて声を漏らした。
「水…野……」
 ふたたび瞼を持ち上げて、やめてくれと目で訴えてみるが無駄だった。
 逆に三上を見上げる水野のほうが切なげな瞳をしてみせる。
「アンタはズルイよ。俺がいつもどんな気持ちでいるかゼンゼン知らない」

 足りない足りない、と水野はいつも三上を求めてくる。
 言葉も態度も身体も――どんなに与えてみたところで、上限を知らない貪欲な子供はいつだって飢えへの不満を口にするのだ。
 その傲慢。
 本当は皆からこの上なく愛されて育ったくせに水野は飢えている。
 そんな彼に対する、眩暈がしそうなほどの嫉妬と、愛おしさが三上を身動きさせなくするのだ。
 逆らえない。
 水野から与えられる感覚すべてに逆らえない、三上は享受するばかりだ。



 内から押されるように刺激されて、三上は堪えきれず観念する。
 ぎゅっと目を閉じて水野の手を濡らしたあと、荒い息をつく三上の身体を、ようやく水野は抱きかかえてくれた。
 促されるように、壁についていた三上の手が滑り、そのまま崩れ落ちて三上は水野の上に倒れ込む。
 そばにあったスポーツバッグから取り出したタオルで濡れた手を拭うと、両の手を三上の背に回し、水野があらためて身体を引き寄せてきた。
「続き、やってもシゲは許してくれると思うけど」
「だからそれ以上、甘えんなって……」
「俺もそう思う。から、続きは帰ってから」
「すんの? マジ? 疲れてんじゃねーの?」
 それに対する応えはなく、ただ、汗ばむ三上の額に触れて、また水野が小さく笑った。
 もう瞳に先ほどまでの不安は見えない。
 ゲンキンなヤツ、そう思いながらも目の前のキレイな笑みには逆らえなかった。
 不機嫌な顔も無表情を装った顔も、水野はいつも綺麗だったけれど、ほんのたまにしか垣間見ることのできない、この笑顔こそが彼の中で本当にいい表情だった。
 どんなキスよりもセックスよりも、三上の心を甘く溶かす。
 何よりそこには痛々しさがない。人を締め上げるような、あの切なさがない。だからきっと安心するのだ。


 もっとたくさん見たいと――見ていたかったと思った。
 彼のこんな笑顔を。





□□□



「にしても……アンタ重い」
 座ったままの姿勢で三上を抱える水野が抗議するように言う。
「るせーよ。今じゃもうオマエと変わんねえよ、残念ながら。――もう現役じゃねえしな」
 付け足しのように口にした最後の台詞だけはマズかったかもしれない、三上は思った。
 水野の瞳が少しだけ、ほんの少しだけ曇ったのが目に入ったからだ。
「そうだな……。たぶん今に俺の方が追い越す」
「そーそー。身体作れ、身体。そんで」







「早く来いよ」




「うん」



 そう小さく頷いた水野の顔がやはり幼く見えて、三上は一瞬の躊躇いのあと、彼の額に自身の唇をそっと押し当てた。
 そんな三上の行動に水野が笑うことはなく――ただ静かに瞼を伏せてそれを受け入れる。
 外では霧雨が本格的な雨に変わったのか、道場の屋根を叩く雨音だけがいつまでも鳴り止まずに二人を包んでいた。






















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5000hitのhiromiさんのリクで『水三』でした。