記憶 ---------------------------------- 借りていた傘と離れの鍵を返しに母屋の方を訪ねると、意外そうな顔をした佐藤が階段を降りて現れた。 「あれ、もうええんか。やっぱヒトんちやと落ち着かんか?」 ニヤニヤ笑う佐藤のからかいに、水野も三上も露骨に顔を赤らめる。 「仲良うしィや。別嬪さん同士。痴話ゲンカも時には必要やろけど」 「シゲ……!」 激昂して突っかかりそうになる水野より幾分冷静な三上は、即座に水野の二の腕を掴んで。 「帰るぞ水野」 水野が気まずげに黙り込む。その横で佐藤に向かって三上は言った。 「悪かったな」 「イエイエ。お気になさらず」 にっこり笑ってヒラヒラと手を振る。 渋沢以上に食えない男だよなコイツも、と三上は思いながら小さく頭を下げて背を向けた。 水野は三上より先に、掴まれた腕を振り払ってさっさと玄関から出て行ってしまっている。 「なあ、三上」 「ダイジョウブ。――なんて保証はないで?」 やっぱりな、と三上は思う。 この男が最後まで黙っているはずはないのだと、それは確信のようなもので。 背後でした幾分冷たさを含んだ佐藤の声音の意味に納得もするのだ。 「タツボンはな。特に。わかってるやろとは思うけど」 「………」 「それでもオレには頼まへんねやな」 佐藤の声に苦笑のような響きが混じる。 「アンタもたいがい――」 言いかけて、急に佐藤が黙った。 そうして、またガラリと口調を変えて元の調子に戻ると。 「いや、今のナシな。悪い。タツボンのことだけはなァ、ついなァ……古い付き合いやから」 自嘲するように佐藤が口にする。 三上も振り返って小さな笑みを浮かべてみせた。 「……わかるよ。俺だってお前の立場ならきっとそう言う。勝手なことしようとしてるんだ。でも別の誰かに預けるのもイヤなんだ。お前の言うとおりだよ、俺は独占欲が強……」 「わー、待て待て。悪かった!言い過ぎた!なんもアンタが悪いとかそういう意味ちゃうねん!」 今度こそ本気で焦ったように佐藤が三上を遮る。 「預けられたからゆうて、オレがどうこうできるワケやないしなァ」 頭の後ろに手をやって佐藤は「うんうん」と自分の言葉に頷いてみせる。思わず三上は笑った。 ちょうどそのタイミングで外から焦れた水野の声がする。 「三上!」 「今行く」 答える三上の背に、佐藤が声をかけた。 「気ィつけてな」 雨はやんでいたが、まだしっとりと濡れた空気の中をよぎるようにして二人は歩く。 けして肩を並べたりはしない。 「なんでそーガキっぽいんだテメーは」 ずかずか歩いてゆく水野の背中を数歩遅れた位置から見やりながら三上が呟く。 「シゲが悪い」 「ああ?」 「あいつはああやって昔から俺のことからかう……」 テメエがすぐムキになるからだよ、と三上は思うが黙っていた。 「人のこと何でも見透かしてムカつく」 お前のこと、すごくよくわかってるんだよ、アイツは。 口にしそうになった言葉を三上はまた呑み込んだ。 今度はもっと苦い想いとともに。 ずっと一緒にいて、暮らしをともにしてさえいるのに、どうして自分たちはこんなにも互いをわかりあえない。 笑い合うことも滅多になく、穏やかなときを過ごせるのなんて数えてみたらほんの少ししかない。 「そういえば帰り際にシゲと何話してたんだ?」 「別に」 三上の答えに振り返った水野の眉が一瞬だけ不機嫌そうに寄せられ、でもすぐにその表情は消えた。 佐藤を信頼しているからだ。 佐藤だけは絶対に自分を裏切らないと、水野は無意識下で信じているのだ。 三上はふいと視線を俯ける。 自分が疑われてばかりなのは仕方がない。 水野を傷つけるようなことを今までしてきたのだ。そして、また今回も彼を傷つける真似をした。 彼の信頼を得られないのは仕方がない。 本当は水野には、佐藤みたいな泰然と構えた友人や風祭のような天真爛漫な友人がそばにいる方が―― 「三上」 急に目の前の水野が立ち止まったせいで、三上もつられて歩みを止める。 顔を上げると水野は肩越しにこちらを見ていた。表情は変わらない。変わらないが、薄い色の瞳には何かを訴えるような、そんな影を宿していた。 「はやく帰ろう」 「………」 普段は鈍いくせに時々敏い、水野は。 三上は無言で一歩踏み出し、水野の肩をポンと叩いて追い越すようにそのまま歩き出した。 「ああ、早く帰ろうぜ」 □□□ 誰もいなかった部屋は冷え冷えとしていて、三上は部屋の明かりを点けたついでに、目に入ったリモコンで暖房器具のスイッチも入れておいた。 湿って冷たくなったコートを脱いで、水野にも羽織っているものを脱ぐように促す。 次は風呂を沸かしておくかとバスルームに向かいかけた三上は、水野がまだ立ったままなのに気づいた。 「何してんだよ、さっさと部屋入れって」 「……食事」 ラップのかかった食卓の上の皿を見て水野が呟く。それから三上に向かって。 「ごめん」 「………」 こういうことを素直に謝れるところに育ちのよさを感じる。 意地っ張りだが素直な面もあって、やっぱりお坊ちゃんだよなと、水野が聞いたら「どんな関連性があるんだよ!」と食ってかかられそうなことを三上は考えていた。 女親に育てられたんだな、という感じがするのだ。意外に細かいところによく気がつく。 三上自身は小学生の頃にすでに母親を亡くし、男親に育てられたクチだから、なおさらだった。 「いいよ明日の朝にでも食えば。俺はまだだから食うけどな」 リビングに棒立ちになったまま、水野は言った。 「俺も食べてない……」 「なら温める。ちょっと待ってろ」 言いながらキッチンに向かおうとした三上は、いきなり背後から抱き締められた。 肩口に水野の顔が埋められ、頬に水野の髪が触れる。 「コラ何のつもりだ」 前に回された水野の腕を掴んで淡々と三上が言う。 「メシ食うんだろ」 「待てない」 「何ワガママ言ってんだよ、いい加減にしろ。俺は腹減ってんだ!」 相変わらずな水野の傍若無人ぶりに空腹の苛立ちも加わって三上は喚き散らしたが、しかしやはりそれも水野の耳には入っていないようだった。 三上が着ているシャツの袷から強引に手を侵入させて水野が素肌に触れてくる。 「離せって!」 「イヤなら抵抗すればいい」 「……またソレかよ。ヒキョー者……ッ」 細くて長い指先が三上の胸の弱いところを遠慮なく摘み上げるのと同時に、首筋に唇を落とされて、三上は身体を竦ませた。 「なぁ…よせ…って……ッ」 まだ扉を開けて部屋に入ってから十分も経っていない。 いくらなんでも、こんな勝手は許すわけにはいかないと思いながら、しかし水野の手が肌を撫でさするのを三上は止めることができないでいた。 そんな三上の背後で水野が小さく笑った気配がする。次にぎゅっと背中から抱き締められて。 「言ったはずだ、三週間ぶりだって……」 耳元で囁かれたその声に三上は観念したように瞼を閉じた。 どうして本当に自分は。 三上は思う。 どうして自分はこの男に身体を許してしまうのだろう。こうも、たやすく。 三週間ぶりの熱を自分も欲してなかったといえば嘘になる。 だけどこのまま夜を通して貪られることを考えると、素直に水野の背に手を回す気にはなれなかった。 夕食を済ませてしまいたかったし、風呂も沸かして……いや、せめてシャワーだけでも浴びたかった。水野が遠征から持って返ってきている私服の洗濯物だって片付けておきたかったのだ。 しかしそのどれも果たせず、三上は明かりがついたままのリビングのソファーにこうして押し倒され、身体を開かされている。 シャツの前ははだけられ、履いていたスボンも膝下まで下ろされて、水野の手の動きに一度も逆らえないまま、三上は思うのだった。 どうして本当に自分は。 三上が別のことを考えていると水野はすぐにそれを察する。 そして三上の注意を引くためか、抗議の意味も込めてか、それまでさして興味も持ってなかったようすの三上の胸元に、乱暴に噛みついたりするのだ。 「ンッ……」 思わず仰向いて声を漏らしたら、今度は甘噛みされて執拗にそこばかり責め立てられた。 「や……、もう……オマエしつこいって……」 口許を押さえて三上は横向く。 脚を大きく開かせるために強く押さえつけられたままの内腿が痙攣したように震える。 一方的に見られているという羞恥もピークに達して、いっそ早く熱のままに意識がさらわれてしまえばラクなのにと思うがそれもかなわない。 水野がなかなか次の行為に移ろうとしないからだ。 意地悪く焦らされている気分になる。 ただ、最近ふと三上が思うのは、水野はただ単に触れるのがスキでこうしているのかもということだった。 (縛られなくなっただけマシかな……) 以前は決まりごとのように両手首をいつも拘束されていた。 たとえ合意であっても水野は三上の両手の自由を奪い、三上は水野の背に手を回すことすらできずに抱かれていたことがあった。 (ああ、でもこんな時でもやっぱり) 腰を抱き上げられ、三上は少し苦い笑みを口の端に浮かべた。水野にはそれと気づかれぬよう。 狭いソファーの上でさえ、水野はそのまま三上の身体に覆い被さってくることはなかったからだ。 どんなに身体を重ねても最後の時には決まって水野は三上の身体を俯せにする。 平たく言えば正常位で抱かれたことがまったくなかった。 厳密に言えば一度だけある。 初めて訪れた水野の部屋で初めて水野に身体を開かされた時――ただその一度きりだけだ。 (何を怖がってんだよ……) 毎回、三上はそう口にしてしまいたくなる気持ちを押し殺す。 水野が恐れていることの内容と理由は三上にも薄々感じ取れていたからだった。 前もって腕を拘束するのは、裏返せば相手から抱き返されないことに怯えているから? 視界に相手の表情が入らないようにするのは、自分の行為が相手に苦痛を与えてしまうのを目の当たりにしたくないから? 自惚れかも知れない。 だけど三上には水野の不安と戸惑いがそれらの行為にあらわれているような気がした。 強引なくせにどこか臆病な、そんな彼の一面を知っているから。 「やァ……アッ……!」 押し込まれる痛みには慣れたと思う。 ただ革張りのソファーでは、いつものように掌に掴み取るシーツもなくて。 それでも何かしがみつくものを探して三上の手がソファーの上を滑る。 不意にその掌に水野のそれが重ねられた。 その場に縫いとめられるよう強い力で押さえつけられる。頭上からは水野の冷静な声。 「力抜け、三上」 「わかっ…てる……ッ」 懸命に身体から力を抜く。呼吸を合わせて、より身体を開いて。 拒絶するより受け入れようとする方がいつも難しかった。けれど受け入れたいと願うこの心。身体を裏切る精神が、いつも三上に水野を受け入れさせる。 「三上、一度……」 水野が退く気配がして、三上は首を打ち振る。 「いいから……ッ」 「三上……」 「そのまま…来いって……ッ」 自分の中の水野の質量が増す。圧迫される感覚に三上は噛み殺していた声を漏らしそうになるが、必死でそれだけは堪える。 水野の顔が近づいてきて三上を覗き込み一言。 「意地っ張り」 「るせ……」 呟いた唇に斜め後ろからキスされた。いたわるように三上を抱きしめる腕。 「やることゼンブちぐはぐ過ぎんだよ……」 三上は微苦笑した。 次にはもう思考を流されるような熱に攫われて、その言葉が水野に届いたかどうかでは定かでなかったけれど。 □□□ 部屋の中が薄明るい。 もう夜明けかと三上は寝返りを打とうとして、そこがソファーの上であることに気づき、昨夜のこともすべて思い出した。 (やっぱりあのまま寝ちまったワケか……) 気がつけば、身体は綺麗に清められていて、ご丁寧に寝間着にまで着せ替えられている。 身体にはベッドから持ってきたと思われる掛け布団も被せられていて、リビングで寝ていても少しも寒さを感じなかったわけがわかった。 昔だったら、とてもじゃないが考えられないことだ。 (やりっぱなしだったもんなァ……) 一度それで裸のまま放置されていた三上が酷い風邪を引いて寝込んでから、水野は変わったようだった。 (学習した、ってカンジ?) わずか数年だが、それでも積み上げてきたものはある。 重い身体を引き上げ、三上は床に脚を下ろそうとしてギョッとする。 何か暖かくて柔らかいものが足の裏に触れた感触があり、脚を引いてソファーの上から見下ろすと、テーブルとの間の狭い隙間に水野が横たわっていた。 一度シャワーを浴びたのか半乾きの髪が首筋に張りついている。 毛布をひっかぶり狭いスペースで窮屈そうにしながら小さな寝息をたてている水野に、三上は呆れて呟いた。 「ベッドで寝りゃいいのに……」 水野は何か不安があると三上のそばを離れたがらない。 本当に子供みたいなところがあった。 「……だいじょうぶかよ」 三上は手を伸ばして瞼にかかった水野の前髪をそっと横によけてやる。 「料理、洗濯、掃除。これからはゼンブ自分でやってかなきゃなんねえんだぞ?」 何でもソツなくこなすように見えて、実は不器用極まる水野の先行きを思い、三上は苦笑する。 でも本当に心配なのはそんなことじゃない。 「―――」 不安なんだ。 不安なのは水野だけじゃない、三上も同じだ。 今だってこうしていると、自分の選択を疑ってしまいそうになるのだ。 この不安定で頼りない、危ういものを放り出して自分はどこに行こうとしているのか。 『ダイジョウブ。――なんて保証はないで?』 わかっている。わかっている。 そばにいたってこんなにも不安なのに。 今までだって幾度も切れそうになった繋がりが、今度こそ完全に絶ち切られてしまうんじゃないかと。 水野のさらりとした髪の感触が指先から伝わってくる。 そのまま額に手を触れる。 温かかった。 (ホントにキレーな顔してるよな、コイツ) 整った顔立ちに以前は冷たさしか感じなかったが、今は違う。 (……ああ、そっか) 積み上げてきたものはあると、今さっきも感じたばかりじゃないか。 距離が互いの関係を殺すことはない、なんて幼いことを口にするつもりはなかった。 でも逆に。 離れていても続けてゆくことができたなら。 あの「間違った」という感覚が消えて、この恋は本当になるかもしれない。 いつも三上は思っていた。 始まりが間違っていたと。 間違ったまま始まってしまったと。 それが少なからず三上の負い目に拍車をかけていた。――きっとそれは水野も同じ。 「三上」 額に置かれた三上の掌の下で、水野が不意にぱちりと目を開けた。 「わッ……驚かせんなよ」 「……身体、平気か?」 「―――」 三上を見上げ見つめてくる水野の瞳はどこまでも真っ直ぐで。 「………ああ。へーき」 小さく笑って見下ろすと、同じように小さな笑みを返して、また水野はすうっと瞼を閉じた。 ほの明るい朝陽が柔らかく部屋に差し込んでくる。 身体は重いが、裏腹に心の中は不思議と軽くなったような心地がした。 触れたままの水野の髪はさらさらと三上の掌を滑ってゆく。 覚えておこうと思った。 この指先から全身に染み渡るような幸福に満ちた感じを。 きっとまた忘れてしまうかもしれない。 不安や焦燥に呑み込まれ記憶は薄れてしまうかもしれない。 それでもできる限り覚えておこうと思った。 この感覚を身体に深く深く刻み付けておこうと思った。 消えることのない不安に、だけど確かにこんなふうに幸せな時間はあったのだと。 そしてこれからも同じように幸せな時間を過ごせるチャンスはあるのだと。 忘れまい。 |
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