この恋は間違っている。
 始まりも現状もこれから往く先も。
 なにもかもが間違いだらけだと三上は思った。わかっていた。


 歪んだまま始めてしまった恋は、いくら続けていても歪んだままだ。
 途中でその歪みが治ることは絶対にない。
 一度壊して初めからやりなおさない限り、それだけはないのだ。


 けれど気持ちを止められなかった。
 触れて、その髪に顔を埋めて、背を抱くように腕を回したとき、おそるおそる伸びてきて、不意に力強く三上をかき抱いた水野の腕。


 その尖った態度の下にある、苛立ち傷つき途方に暮れた子供のような内面を知ったとき、彼が愛しくてならなくなった。
 癒せるはずもないのに、自分のこの腕の中で慰めてやりたいと思った。
 不可能なことを承知で。


 三上はこのときほど――自分が欲深く自分勝手な人間だと思ったことはなかった。


















歪んだ恋
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「すげえ量」
 郵便受けを開けた途端、なだれ落ちてきた郵便物に三上は眉を顰める。
 まだ今の住所になってから半年ちょっとしか経っていないというのに、どこで調べたんだか毎日のように届くダイレクトメールの束。
 アンケートになど絶対に答えないようにしているのに、それでも情報というものはどこからか確実に洩れるもんだなとしみじみ思う。
 エレベータの中で、ダイレクトメールの中から必要な分だけ抜きとって残りは鞄に放り込むと三上は舌打ちした。
(ゴミが増えんじゃねーかよ。……ったく)
 学生時代の六年間、クラブ在籍時代の一年間、計七年にわたった寮生活を経て、初めて一人暮しというものを始めてからゴミの量に敏感になった。できるだけゴミを少なく、そう心がけている。別に環境に配慮してとかそういうワケではなく、単に大量のゴミを溜め込むのがイヤなだけだ。
 最初は何かと面倒だった一人暮しもペースを掴んでしまえばたいしたことはない。むしろ寮住まいよりずっと自由度は高い。今の生活を楽しむ余裕も最近は出てきた。





 高校最後の年にプロクラブからのスカウトを受けた。
 それは大学に進学し、サッカーを続けるつもりだった三上にとっては思いがけなく、そして願ってもないチャンスだった。
 サテライトで結果を出し、トップチームに怪我人が多く出たこともあって、三上はリザーブメンバーとはいえ入団後わずか半年にしてリーグ出場を果たす。
 このまま駆け上がってゆこうかというその矢先、試合中に負傷した。
 それからはリハビリの日々が続く。
 傷は癒えたが、後遺症は残った。選手としては致命的な負傷だった。
 クラブから来季契約の意志がないことを伝えられ、三上のプロ生活はそこで終わる。

 
 よくある話。


 トップでの出場すら叶わず、解雇される選手も多い。好機に恵まれただけ三上は「幸運」だった。
 今、三上は各種資格取得へ向けての準備を進めている。
 来年には大学への進学も決まっている。
 プロ生活の後半に体験したリハビリテーションが三上の進路に大きな影響を与えたのだった。
 供給過多気味とも言われているトレーナーだが、それでも三上はその道に進みたかった。自分がもう二度とプロ選手としてボールを蹴ることはないと理解した時からその思いは強くなった。
 学びたいこと、学ぶべきことは山のようにある。
 立ち止まっている暇はなかった。





 平日、昼下がりのマンションは静かなものだ。
 入居者はほとんど単身者の会社員で、最寄り駅の沿線に学校が少ないせいか、学生はそれほど見かけない。
 鍵を取り出しながらマンションの短い廊下を歩く三上は、ふとそこで自分の部屋のドアの前に膝を抱えてうずくまる人の姿があることに気がついた。
 指先に緊張が伝わったのか、思わず鍵を握りしめてしまう。が、立ち止まることはせずに黙って近づいていった。
 体格からいって女ではない。
 品のいいベージュ色のコート。
 癖のない薄茶の髪。
 誰だかはすぐに見当がついた。
 さて何と声をかけようかと思いあぐねているうちに三上の気配に気づいたのか「彼」が顔を上げる。
「………」
「よお。人気選手」
 あからさまにムッとしたのがわかる。三上は笑った。
「変わってねえな、水野」
「……アンタもな」
 もしかしなくてもこれが、あの夏の日以来初めてかわした会話かもしれない。二年前のあの夏の日。
 けっこう平気なモンだ、と三上は他人事のように思っていた。
 一年前に葬式で彼の姿を見た時も、別段これといった感情は浮かばなかったし、こんなものなのかもしれない。

「で。――何やってんの?」
 俺の部屋の前で。

 別に厭味でも何でもなく、三上はただ素朴な疑問を口に載せただけだったが、水野は眉根を寄せて無言のまま三上を見返してくる。挑むような視線は、だが、すぐにふいと横にそれた。
 思わず肩を竦めてみせたくなりながら、三上は水野の頭越しにキーを差し込むと言った。
「とりあえず中、入ろうぜ」



□□□
 


 部屋に入るとヤカンを火にかけた。
 外から帰ってきたばかりの三上は別に冷たい飲み物でもよかったのだが、何時間ああしていたのだろう、水野の顔色は悪く、唇も蒼ざめている。
 本格的な冬にはまだ早いが、秋の気配は徐々に薄れている十一月下旬。
 三上は狭いワンルームのキッチンから先に奥に通した水野のようすを窺い見た。


 こうして顔を合わせるのは約一年ぶりか。


 ホントにテレビで観る顔と同じだな、と三上は思う。
 会うのも一年ぶりだったし、しかも三上はスタジアムに足を運ぶことも減っていたからブラウン管での彼の姿の方が馴染み深い。
 三上の場合と同じく、いやそれよりずっと早く、今年、水野はプロ入り一年目でトップ出場を果たしていた。
 期待の新人、即戦力。
 これまでの彼の華々しい経歴からすれば当然の流れだ。
 もっともシーズンの終盤、彼はひどく調子を落としていた。
 相手チームに研究されたからだという声もあったが、三上の目で見た限りでは水野自身に原因があるように思えた。


「上着くらい脱いで、座れば?」
 部屋に入ったものの突っ立ったままの水野を見かねて、三上はハンガーを渡し、ソファーベッドを指差す。
 黙って頷いた水野が薄手のコートを脱いだ時、三上は彼が上下黒のスーツ、白いシャツに黒いネクタイ姿なのに少しぎょっとした。
(葬式帰りか……?)
 それにしてはコートの色が、と三上は不審に思い、ややあって――ああそうか一周忌か、と合点がいく。
(しかし、それにしたって着替えもせずに?)
 そう思って水野のようすを見るとやはりどこかおかしい。
 最初こそ憎まれ口を返した水野だが、瞳は虚ろで、どこか呆然としている。
 一年前の葬儀の席ですら、そんな表情を露ほども見せなかった彼が。



 ――あの日の水野のことはよく覚えている。

 もしかしたら今までで一番印象深かった彼の姿かもしれない。
 流れる涙をハンカチで押さえながら俯いた喪服姿の若い母親の横で、彼は一粒の涙も見せずにそこに立っていた。
 黒い学生服を着た彼に表情はなかった。
 元より秀麗な顔つきをしていることも相まって、凍りついたその瞳はまるで人形のもののようだった。
 三上自身は、まだ小学校に上がったばかりの頃に母親を亡くしていたことから、肉親を失った者の気持ちはある程度わかるつもりでいた。
 男なんだから泣くもんかと幼心に決意したこと、けれど出棺の際に堪えきれず最後には歳の離れた兄に縋り付いて泣きじゃくっていたこと、葬式の情景とともにそんな記憶がおぼろげに残っている。
 けれど水野の反応は――三上にとって予想外というよりも、違和感を覚えるものだった。
 無理に感情を押し込めたふうでもない、だからと言って茫然自失というようにも見えない。
 水野はひたすらに無表情だった。
 あえて言うなら、乖離に近かったかもしれない。
 肉親がなくなったということを心が拒否しているのか。水野はまるで他人事のような顔をして、遺影を持った母親に付き添っていた。



□□□



「はい、どうぞ」
 そんな言葉とともにコーヒーの入ったマグカップを手渡す。
 ソファーベッドに腰かけていた水野は、差し出されたマグカップを見、それから三上を見上げて眉を顰めたあと、小さな声で礼を言ってそれを受け取った。
「………」

(相変わらず可愛くねえなあ)

 三上は、自分は立ったままでコーヒーを口にしながら水野に目をやり、思う。
 三上のすることなすこと、まるで裏があるんじゃないかというように疑った顔をして。

(部屋に入れてやったんだから、コーヒーくらい出してやるっつーの)

 それとも手渡した時の口調が厭味に聞こえたんだろうか。
 確かに三上はかつて水野に対してそんな口ばかりきいてきたのだから、仕方ないことかもしれない。
 水野は渡されたマグカップを両手で包み込んで、その指先を温めるようにしている。
 けれど蒼ざめた唇は色を取り戻すようすもなく、水野の思いつめた表情は変わらない。

「暖房、つけるか?」
「いい」

 水野の即答に、三上はエアコンを指差した手を所在なげに下ろす。
 狭いワンルームだ。
 客間など当然あるはずもなく、立ったままの三上が座ろうと思ったら、水野が今腰かけているソファーベッドしかない。
 だが、隣りに座るのもなんとなく憚られて、三上はやはり立ったままでいた。


「―――」

 別に思い出してるわけじゃないけど。


 身体が覚えてるのかもしれない。
 三上はコーヒーを飲み干しながら、やっぱり他人事のようにそう思った。


 何を話せばいいのかもわからない。
 そもそも三上が彼を呼んだわけではない。部屋に通しはしたが、その先のことは考えていなかった。
 しかし、訪ねてきた水野がこうして黙っている以上、結局は自分がなんらかの取っかかりを作るしかないのだ。
 冷めてしまったコーヒーを煎れ直すのを理由にして水野の手からマグカップを取り上げると、近づいたついでのように三上は口にした。
「それでなんで俺んところへ来たんだ……?」
「………」
 水野はやはり黙っている。
 だが、一度首を振ると、額をおさえて呟くように言った。
「わからない、自分でも。気がついたらアンタの部屋の前にいた……」
 なんだよそりゃ、と言いたくなるのを三上は堪える。
 水野の言葉は半ば真実だろう。
 だからこうして、呆然としたまま三上の部屋のソファーベッドに座っているのだ、言葉もなく。


「一周忌」
「―――」
 三上の一言に、水野の表情が強張る。三上は眉を顰めた。やっぱりこのせいだ。
「今日だったんだろ? 何か、あったのか……?」
「………」
 水野は答えず、また黙り込んでしまう。
 長い沈黙。
 促すことを三上に躊躇わせるような張り詰めた空気が水野を取り巻いていた。
 三上はただ、注意深く水野の口許を見つめる。
 その薄い唇が言葉を紡ぐのを静かに待つ。




「……たまには顔くらい見せに来いって言われてたのに行かなかった、俺は」


 三上ははっとする。水野の握られた手が小刻みに震えている。
「みず……」
「謝れなかった……一度も」
 最後の方は声を詰まらせるように彼は言い、それきり自分の掌に顔を埋めてしまった。
 水野は肩を震わせて嗚咽していた。
 泣いていた、彼は。
 通夜でも葬式でも見せなかった涙を、今ここで彼は流していた。


 三上は水野の前に立ち、じっとそんな彼を見つめていた。




『謝れなかった。』


 だからなんだろうか。

 ――だから俺のところに?



 水野を苦しめる悔恨の念。 
 父親に対するそれが、別の対象をも呼び起こしたのだろうか。
 懺悔する相手を失った水野は、無意識下で三上を選び出した。


 つまりそれは――今も自分が水野の負い目になっているということだ。


 立ったまま水野を見つめる三上は少し目をすがめる。
 水野が抱える痛みとともに自分の中の傷も疼くようだった。
 最初に仕掛けたのは自分。
 それが彼の歯車を狂わせたのだ。
 ただでさえこじれていたものを、衝動に任せてさらにかき回した。ただ、自らの腹いせのために。
 忘れもしない。長く続いたあの年の、鬱陶しい梅雨。
 そして――
 それから数年たった、あの夏の日。


『俺のこと、忘れられないようにしてやるよ』


 三上はそっと歩みを進めて腰を折る。
 近づいた水野の髪からは香の匂いがした。法事の際の移り香だった。
 唐突に――こんなことをしてはあの人に会わせる顔がないと三上は思う。
 それからまるで数年後にはもう自分もこの世にいないかのような考え方をしていたことに気づき、三上は苦笑した。
 とりあえず出会うとしてもそれはまだずっと先のことだ。
 詫びはそのとき考えよう。


 すみません監督。


 水野の薄い色の髪に手を梳き入れる。
 少し遅れて泣いていた水野の嗚咽が止まる。
 顔を上げようとした水野の髪に顔を埋めて、三上は水野の背に腕を回した。
 腕の中で水野がビクリと肩を震わせたのがわかり、三上は彼を抱く腕に力を込めた。
 水野が何事か呟いたようだったが、三上には聞き取れなかった。
 けれどたぶん自分の名前を呼んだように三上は思う。 
 動かない水野に、けれど三上は腕を弛めることはしなかった。


 どれだけの時間、そうやっていただろう。


 不意に三上は腰を引かれ、水野の上に覆い被さるようにして、二人もろともにソファーベッドに倒れ込む。
 しばらくそうやって抱き合っていた。
 互いの心音がことのほか大きく響く。


 まだ引き返せる。


 たぶん水野もそう思っている。彼は二度目の過ちを犯すことに怯えていた。
 手をついて水野の上から退こうと思えばできた。
 だけど三上はしなかった。したくなかった。



『アンタは俺に償う義務がある』



 あれは同意の上での出来事だったと、彼の認識をすりかえたい。



『俺のこと、忘れられないようにしてやるよ』



 あの時、本気で最後まで抵抗しなかったのは、受け入れたからだ彼の言葉を。
 そんなことで彼の気が済むならと、安易に受け入れて彼の苦悩をより深くした。
 憎むほど焦がれて、焦がれるほど憎んだ。
 焦がれる気持ちと憎しみの気持ちが自分の中でも、いまだ消えていない。
 執着。
 そして、解放。
 相反する二つの気持ちが同じ方向を指している。
 

「三上……」
 小さな小さな声がして――それから三上は突然口づけられる。
 奪うような深い深い口づけ。
 目を伏せ、応えるように三上も舌を絡めた。
 それから二人、ずっと抑えられていた欲望をぶつけ合うように激しくて短いセックスを、した。



□□□



『三上、どうして……』



 部屋を出るとき、彼は言った。
 三上はただ笑ってやった。
 彼は泣きそうな顔をした。

 三上はきっとその表情を忘れない。
 その時、湧き起こった自身の感情も。



□□□



 彼が、今までもこれからも愛され守られ慈しまれる存在だということを思い知るのに時間はかからなかった。
 いや最初から知っていた。
 ずっと昔から知っていた。

 
「ずうっとサッカーバカで通してきた優等生が素行不良。誰かさんのマンションに入り浸りでな。もうすぐキャンプも始まるっちゅーのに」
 頬杖をついてこちらを見つめてくる目には呆れの色しかなかった。
「オンナやないかーってコーチらからは疑われてるらしいけど、まだそっちのほうが救いようがあったわな」
 突然訪ねて来られた時、初対面という感じがまるでしなかったせいか気づかなかったが、彼とこうしてまともに会話をするのが、まず初めてだということに三上は不意に思い当たる。
 出されたコーヒーを丁寧に断って、なぜか持参したペットボトルのコーラを飲んでいる。
 真冬なのに、おかしな男。
「なあ、三上サン」
「同い年なんだろ。呼び捨てでかまわねえよ」
「なんで知ってるん?」
「アイツに聞いた。つーか、聞かなくても公式サイトにプロフィール載ってるだろ」
 せやなあ、そう言って笑ってみせる金髪の男は、けれど目が笑っていない。
 値踏みされてるみたいだな、三上は思う。苦笑しそうになった。
 それを敏く見咎められたようで、
「別に――オレかてごちゃごちゃ言いたないねん、ヒトのコト。けど気になるモンはしゃーない。性分や。アンタのこと一方的に悪者扱いしようとしてるんちゃうねんで?むしろ悪いんはどっちかっていうとボンのほうやろ?被害者は三上さ……三上のほうちゃうんか、とも思てる」
 それだけ一息に言って、彼の方が先に苦笑してみせた。


「なァ」




「いっしょに住むて、本気?」



「―――」

 三上の無言を即座に肯定ととったようだ。
 なんというか本当に人の機微に敏い男で、水野とはひどく対照的だった。


「――わかってんねやろな?」


 まったく佐藤という男は、それだけの言葉にたくさんの意味を載せる。


「わかってるよ」


 三上は小さく口の端で笑った。
 それを見て佐藤の眉間が顰められる。
 それから遅れて小さな溜め息。


「おまえらアホやわ……」


 三上は返す言葉を知らない。
 ただ、かすかな笑みを浮かべるだけだ。


 水野の顔を思い出す。
 彼の髪の匂いを、腕の強さを、指先の冷たさを――それは単純に三上を幸福になどしない。心が引き攣れるような息苦しさを常に伴う。奥まで入り込んで粉々に壊してやりたいような、それでいて心底慈しんでやりたいような。



 これは歪んだ恋だ。
 だけどもう止められない。始まってしまった。始めてしまった。























 だってアイツが欲しかったんだ。























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9000hitの高月実缶さんのリクで『水三』でした。