甘い男
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「ええ加減にせえ!」



 パシッと乾いた音がしたかと思うと、水野が頬を押さえる。
(あいつも水野と同じくらい、すぐに手が出るな)
 三上は床に座り込み、背をベッドにもたれさせた姿勢で、その音を聞いていた。
(上水出身のやつらはみんなああなのか)
 私立校出の上品な俺には理解不能です、三上は皮肉めいた笑みを浮かべた。あんなふうに相手のことを殴ってまで諌めたり――そんな熱いことは渋沢とだってやったことがない。
 三上は解放されたばかりの手首を撫ぜた。擦れて赤くなっている。でもたいした傷ではない。きっとああやって何度も殴ったり引っ叩いたりするほうが、痛い。手は痛いはずだ。


 突然現れた乱入者は部屋の外でまず一発、水野を殴って(三上は見ていないが、リビングのほうですごい音がしたので水野が倒れ込んだのは間違いない)、それからこの部屋に踏み込むと無言で三上の拘束を解いてくれた。三上を含めベッド上の惨状を見ても眉ひとつ動かさない。渋沢同様、肝の据わったやつだ。そうでなくては曲がりなりにも自分たちの友人などやってられないのかもしれない。ただ佐藤は渋沢よりはずっと鋭く切れそうな――端的に言うと危ない目をしていて、その醒めた表情がかえって三上などには恐ろしく感じられたのだが、どのみち自分に何かできるわけもなく、ただ事態の行く末を見守るばかりだった。
 すぐさま水野が後を追うように部屋にやってきて何事か喚くと、佐藤は庇うように三上を背にして、それに対峙した。その間に三上はどうにか着衣を整えたが、薄手のそれは冷房の効いたこの部屋では少し肌寒い。


 金髪をした男の肩越しに見える光景の中で、平手で叩かれた水野はそれでも挑戦的な瞳を変えてはいなかった。
 まるで反抗期の子どものようだ。
 自分が悪いとわかっているくせに素直に謝れないような。
 そんな顔をしている。

「お前には関係ない」
「関係なくてもな、見てるこっちは気持ちええもんちゃうねん。わかれや」
「見なければ済むことだろう」
「見ないフリせえってか?」
 鼻で笑った佐藤の瞳に剣呑な光が宿った。
 水野は一瞬たじろいだようだが、それでも強がる姿勢は崩さなかった。
「そうだ。俺が三上に何をしようと、お前が見なければそれで済む。わかったら出て行け」

「そういうことなら――こういうのもありやんな」
 言うなり佐藤は振り返ると、座り込んでいた三上の胸倉を掴み上げ、いきなり殴りつけた。
 衝撃で三上の身体が飛ばされる。
 壁に当たって三上は苦しげにうめいた。
「なっ…」
 水野は突然のことに目を見開く。
 だが、そんな水野には構わず佐藤はもう一度、ぐったりしている三上を掴み起こすと、また一発、今度は腹に向けて拳を繰り出す。


「シゲッ、やめろ!」

 狂ったとしか思えない佐藤の行動に、水野は蒼白になりながらも懸命に止めに入った。
 佐藤の拳には容赦がなく、彼の喧嘩の強さを知っているらしい水野は必死にその腕に縋りつく。
 三上は突然の衝撃に朦朧となった意識で、そんな二人を見ていた。
 佐藤が水野の手を振り払い、再び三上に手を伸ばしてきた。掴み上げられ、上半身が浮く。
 ああ、また来るな――そう覚悟して目を伏せると、水野の悲鳴に似た声が上がった。


「やめろ!三上が死ぬ!」


 佐藤はそれを待っていたかのように急にぴたりと動きを止め、三上からも手を離すと、冷たい目で水野を見た。
「はあ?お前も似たようなことやってるんとちゃうんか?これはオレと三上の問題であって、お前には関係ない」
「関係ないって……」
「見たくないんなら見んなや」
 佐藤の意図を察したらしい水野の頬にカッと朱が差した。
「お前がやってること、はたから見たらこんなんや。無抵抗の人間、嬲って。どや、気分ええもんちゃうやろ」
「―――ッ!」
 言い返す言葉を失った水野は踵を返し、ドアを叩きつけるように締めて部屋を出ていった。
 その背に向かって佐藤が一言。
「ガキ」


 ガタンバタンと大仰な音がして、玄関の扉が開けられ水野が家の外に出た気配が伝わってくる。
 まるで嵐が過ぎ去ったかのように、部屋は奇妙な静寂に包まれた。
「少し頭冷やしてきたらええねん」



「なあ、三上サン?」
 佐藤は振り返り、にっこりと微笑む。口許を拭って三上は半目でその笑顔を見上げた。
「……悪趣味だ」
「類友ってヤツですわ。聞き分けのないボンには目で見てわからせなな」
 この二人似ている、と三上が勝手な感想を抱いていたことまで見通していたようで、佐藤は意味ありげに笑って言った。
「どや?なかなか効果的やったやろ?」
「私怨も入ってた……」
 苦々しげに三上が言うと、すっと真顔になって鋭い目が向けられる。
「当たり前や。さんざん人を振りまわしてからに。お前にもオレはいい加減切れそうなんやぞ?」
「……わかってる」
 呟くように答えた三上に、佐藤は少しばかり目許を柔らかくして、きかん気の困った子どもを前にしたような顔になった。
「少しは抵抗したれや。なんでなすがままやねん。ほんまいつか死ぬで」
 三上の傍らにしゃがみこむと、佐藤は自分が殴った三上の頬に手をやった。そのまま、唇の端を指でなぞる。
「よし。切れてへんな」
 確認して頷く。三上は薄く笑った。
「誰かさんと違ってお前は力加減がうまいな」
「当たり前やろ。いっしょにせんといて」



「なあ、ほんまになんで抵抗せえへんの」
「………」



「……復讐なん?」
「そこまで器用じゃねえよ」



「マゾ?」
「それはちょっとあるかも、な」
「うわやめて。マジ、引く」



「俺も……実はよくわからない。否定はしたけど、本当は復讐なのかもしれないし、マゾは冗談にしても、俺は結局あいつのやることに逆らえない。――あいつ、誰かに止めて欲しいんだよホントは。でも俺にはできない。あいつも自分じゃ抑えきれない。だから俺ら二人とも、お前には感謝してるよ。あいつはいい友人を持った」
「………もー、それ、ぜんっぜん嬉しないし」
「だろうな」
 佐藤の心底イヤそうな顔に三上は笑った。


「まあ、いつもずっと、あんなふうなワケじゃねえから」
 三上は俯き、床を見つめながら言う。思わず穏やかな笑みさえ浮かべてしまって、佐藤が不審げな顔をしたのがなんとなく気配でわかった。
「オフは疲れが出るんだ。精神的なのがさ。――不安定になるのは仕方がない」
「甘。同じプロとして反吐出そうになるわ」
 吐き捨てるように佐藤は言った。これも本音だろう。水野には容赦がなくて、だからこそ親愛の情を感じる。三上は小さな笑みを浮かべた。
「普段はあいつ、もっとやさしいよ」
「のろけたいんですか、三上サンは」
「かもな。――今日はお前が来てくれて助かったよ。助かったついでにあいつ、探してきてくれるとありがたいんだけど」
「……今日はえらい甘えんな、お前まで」
「悪い。だけどもう限界で……少し眠ってもいいか?」
「ええよ、ええよ。寝えや」
 佐藤はそう言うと、あっさり三上を抱え上げベッドへと戻してくれる。触れることにも嫌悪がないんだな、と三上はちらりと思った。
「おわ、意外と軽いなあ。こりゃ吹っ飛ぶはずやわ」
 それからふと真剣な目になって三上の顔を上から覗き込む。
「……殴って悪かったな」
「いや、こっちこそ殴らせて悪かった。手、痛むだろ」
「―――」
 佐藤は急に黙り込み、動かずにまじまじと三上を見ている。少々居心地悪くなって、三上は身体を横たえたままの姿勢で「なんだよ」と問う。
「ああ――。なんや、……お前もたいがい屈折したやっちゃな。ボンの手には負えんやろと思うわ」
 いつもの揶揄する調子ではない。
「けど、好きやねんなあ。それだけはわかる。だからオレは何もできひん。せいぜい、こうして殴ってお前ら叱りとばすくらいや」
 三上は苦笑した。
「十分だって」
「タツボンのこと、ほんま頼むわ。三上さん」
「それを、言うのか……」
 三上は眉間を寄せる。この男の卑怯さと姑息さもたいがいだと思う。苦虫を噛み潰したような三上の表情に、ようやく佐藤はしてやったりといったふうな笑みを見せた。
「オレは身内にはめっちゃめちゃ甘い男やねん」
「知ってるよ」





「ほな、ご要望通り探してきまひょ。このクソ暑い中、あいつ熱射病にでもなって行き倒れてへんとええけどな」
「ああ、ぜったい無駄にうろついてるはずだし」
「どっか店入るとか思いつかんやろしな」
「その前にたぶん財布も忘れてる」
「で、缶ジュースの一本も買えない、と。こりゃ脱水症状のが先か?」
「だめだ、本気で心配になってきた。あー、コンディションだけはキープさせとくつもりだったのに。佐藤、はやく行け」
「……なあ、実は似た者同士はお前らのほうちゃうんか?ああ、行くって。行かせてもらいますわな」



 眩しいくらいの金髪が視界から消えてパタンとドアが閉められる。
 馬鹿みたいに面倒見のいい第三者は、きっとまだ少し脹れっ面をした反抗期のこどもを連れ帰ってきてくれるだろう。
 三上は何日ぶりかの安らいだ眠りに落ちた。
















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