「なんでそうなるんだ」
「俺にもわかんね」


 部屋で文庫本を読んでいた渋沢は顔を上げて心底驚いた声で言った。
 そういやあの日もこいつは風呂場の前で文庫本片手に待ってたよな。三上はなんとなくそんなことを思い出した。虫の知らせか。いや、今日はちゃんと出かける前に、自分が水野を呼び出し今から会いに行くのだという旨を伝えておいた。だからこその言葉なのだ。
 ――なんでそうなる。
 まったくだ。三上は唇を歪めた。

「とりあえず横になれ。顔が真っ青だぞ」
「わり。今から俺、お前に多大な迷惑をかける」
「そんな宣言されても嬉しくもなんともない」
 そう口では言いながら、渋沢は崩れ落ちそうになる三上を抱きとめ、ベッドに静かに横たえると、すぐさま棚上の救急箱を手に取って返した。
 顔は一度しか殴られてないのに(しかもほとんど目に見える外傷はない)、と不思議に思った三上だが、手際よく上着のボタンを外されて、ああこいつはなんて勘がいいんだろうとぼんやり思った。
 ただ、それは三上の思い込みで、やっぱり渋沢もそこまでは予想していなかったようだ。単に寝間着に着替えさせるつもりだったのか、はだけたシャツの下に青黒い痣を見つけて、さすがの渋沢も息を呑んだ。三上はすかさず言った。
「安心しろ同意だ」
「驚いたな三上。お前、ずっとサドなんだと思っていたが実はマゾだったんだな」
「そうらしい。俺も今日知ったよ」
 軽口を叩いてくれる気丈な男の存在が今は何よりありがたかった。
 三上はくくっと笑う。
「お前がサドだのマゾだの言うと違和感だな」
「そうか?」
 渋沢は意外そうな顔をして、だが手はてきぱきと治療のために動いた。
「残念ながらこれは校医には見せられないな」
 消毒して湿布を貼りながら、渋沢は言う。三上も言った。
「階段から落ちたっていうのは厳しいか」
「厳しいな。それに今時そんな古典的な言い訳もないだろう」
「お前に古典的とか言われるとむかつく」
「どういう意味だそれは」
 渋沢が憮然として答え、ついでのように付け足す。
「ああ、それからもう喋らないほうがいいぞ。吐いただろう、お前。声がガラガラだ」
「ゆすいだんだけどな。匂うか」
「いや、それは大丈夫。ただ喉が荒れている。熱もある。体力を奪う。一刻も早く元に戻りたかったらもう黙れ」
 言われて三上は大人しくそれに従う。
 実際、ひどく喉は痛んでいた。最中に声を殺しすぎたのと、そのあと吐いたせいで。



「……渋沢。俺、今日何しに行ったか知ってる」
「知ってるよ、自分で言っていたじゃないか。水野に会いに行ったんだろう。知ってるから喋るな」
「謝りに行ったんだ。今さらだけどな。本当に今さらだけどな……」

「今さらでも何もしないよりはマシだと、そう思ったんだろう?」
 なら、いいじゃないか――とでもいうように渋沢は表情を変えないまま、三上の身体を丁寧に拭いてゆく。
 三上は一度目を伏せ、それから視線を天井へと飛ばした。
「まあな。でも、それ間違いだった」









「……なあ渋沢」
「ん?」
「……あいつやってる最中ずっと泣きそうな顔してたよ。可哀想だった」
「……そうか」










 しばしの沈黙。――そして不意に、渋沢がぽつりと言った。

「なんで止めてやらなかったんだ」
「―――」
 その台詞に、虚を突かれたよう三上はその表情をなくす。
 渋沢の悼むような視線が返ってきて、三上は唇を開こうとした。
 それを遮るように今度は渋沢が目を伏せる。
「いや、……いい。喋るな」
 三上はゆるゆると腕を持ち上げて顔を覆った。
「俺は馬鹿か……」
「三上」
「あんなことくらいで、あいつの気が済むならって」
「三上」
 渋沢の声に咎めるような色が混じる。
「本当に俺、何しに行ったんだか……」
 自嘲の笑みはうまく作れなかった。
 腕では隠しきれなかった口許から嗚咽がひとつ漏れて、三上は顔を背けてシーツへと突っ伏した。
 背後で治療を終えた渋沢が三上の着衣を整えると、そっと立ち上がる気配がする。
「……声を殺すなよ三上。喉を痛めるぞ」
 背中に柔らかな声をかけられ、明かりが落とされる。
 だが、同室者の忠告に三上は従えそうになかった。
 せり上がってくる嗚咽を噛み殺し、三上は背を丸める。身体中の痛みが今になって再び熱を持ち、三上を苛む。ただ、三上は頬に触れるシーツがこぼれる涙で熱く湿っていく感触だけをリアルなものとして感じていた。














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