夏が終われば部活は引退だと伊達が言う。
 今はこうして伊達の部活のない日だけを選んで待ち合わせているが、秋からは毎日ともに下校できるようになるのだろうか。真田の胸は浮き立った。
「うちの学校は夏で引退ってのが大多数だな。たまに秋まで活動するやつもいるけど、そういうのは少数だ。一応、進学校だしな」
 三年生の伊達は受験生でもある。だが、塾や予備校に通うつもりはないらしかった。
「受験……。今から気の重いことにござるな」
 はあと大きく溜め息をついた真田の横で伊達が笑う。
「大袈裟だな。俺はともかく、お前はまだ先のことだろ」
「いえ、今でも毎日の授業についてゆくのが必死の某には先のことよと鷹揚に構えてはおられませぬ」
「まあ、早めに準備するに越したことはねえけどよ」
「本日もせんだっての考査の結果が返って参りましたが、当然ながら成績は芳しくなく……」
 もともと己の学力レベルでは厳しいところへ無理を押して編入してきたのだから、こうなることはわかっていた。もっとも伊達にそのようなことを言えるはずもない。
 真田としては特に意図もなく、ちょっとした日常の話題のひとつで終わらせるつもりだった。
「おい、ちょっと見せてみろ」
「は……、何をでござろう?」
 右の掌を上にしてこちらに差し出し、伊達が寄越せというものが本気でわからずに真田は首を傾げた。
「テスト結果に決まってんだろ」
 こともなげにそう言う伊達に対し、真田はたじろいだ。
「な、なにゆえでござるか」
「いいから見せろ」
「か、勘弁くだされ。とても政宗殿にお見せできるようなものでは……」
「今さら恥ずかしがるような仲でもねえだろ、見せろ」
 さらりととんでもない台詞を口にする伊達に内心の動揺を隠せないまま、真田はなおも抵抗した。一応、真田にも見栄というものがある。ましてや相手は伊達なのだ。好意を抱いている相手にあまり無様なところは見せたくない。
 だが、真田が拒否したことでますます興味を持ったのか、伊達も伊達でなかなか引き下がろうとしない。
 そうしながら、似たような押し問答を昔、伊達としたのを真田は思い出す。
 書け、書きとうありませぬ――書の不得手を指摘され、伊達の目の前で何か書いてみろと命じられた。あのときも己は気恥ずかしさから意地を張って、素直に首を縦に振らなかった。
 伊達は覚えているだろうか。
 ついには観念して点数と学年順位が打ち出された紙片を渋々差し出した真田に対し、受け取った伊達が満足そうな顔をしてみせるのもまるであの日と同じだった。
「最初から大人しく渡しゃあいいんだよ」
 片手だけで器用に中を開き、伊達がそこに目をやる。途端、歩みをぴたりと止めた。つられて真田も立ち止まる。
「いかがなされ……」
 伊達は食い入るように手の中の小さな紙を見つめている。
「………」
 長い、長い沈黙が伊達の心情を雄弁に物語っていた。
「まさ、むね殿……?」
 恐る恐る真田が声をかけると、伊達はじっと紙片から目線を動かさないままで呟くよう言った。
「……次のテストまで約ひと月半」
「はい」
「放課後は空いてるな。空いてるに決まってるよな。部活してねえんだし」
 真田に口を挟む隙を与えないまま、伊達は言った。
「よし。明日から待ち合わせの場所変えるぞ。授業が終わったら、お前が直接、俺の教室へ来い。いいな?」
「は……、それは構いませぬが」
 いまひとつ伊達の意図するところを把握できずに首を傾げた真田に対し、焦れたように伊達が己の髪をかきまわす。
「だーかーらー、俺が勉強みてやるって言ってんだよ」
「……な、な、なんと……!」
 思わず声が裏返る。伊達がじとりと真田を睨みつけた。
「なんだ。俺じゃ不服か」
「め、滅相もござらん!」
 それは願ってもない申し出であり、同時に真田の葛藤を激しく揺らした。
「ですが……」
「なんだよ」

 距離が近づく。
 歯止めが利かなくなってしまう。

 伊達は少し不機嫌そうに眉を寄せてこちらを睨んでいる。そんな表情すら、真田にはいとおしくてたまらない。不器用な伊達の、それはポーズだと知っているからだ。



      (中略)



「政宗様。真田が参りました」
 居室の外から片倉がそう声をかける。ややもせず、入れという短い声が返って、片倉が障子戸を開ける。
「よう、真田。ずいぶん早いお戻りだな。忍びからは今日の昼過ぎになるって聞いてたんだが?」
 寝衣のままではあるが、半身を起こし、気安い調子で声をかけてくる。だが、真田は気が気ではない。
「政宗殿、そのように起き上がられては」
「No problem. 傷は塞がってる」
「……熱を召されたと聞き申した」
 ふと口元だけで伊達が笑う。
「たいしたこたねえよ。体質だ。昔から熱が出やすくてな」
「政宗様」
 窘めるように片倉が伊達を見た。隠すようなことでもねえだろと伊達は笑っている。
 そういえばと真田は思った。ガキの頃から痛みには慣れている、戦の最中、確か伊達はそんなことも言っていた。
 いったいあれはどういう意味だったのだろうかと真田が思いを巡らせていると、伊達が傍らに控える片倉をちらりと見て言った。
「それにしてもよく小十郎が通したな」
「政宗様がご所望なされたことにございますれば」
「Ah. ダメもとでも言ってみるもんだな」
「某に何か……」
「ああ、いや、たいしたことじゃねえんだが……」
 らしくなく、伊達が言葉を濁す。
 真意が読めずに真田が内心で首を傾げていると、伊達が言う。
「武田のおっさん……sorry, 甲斐の虎の具合はどうだった?」
 真田がぐっと唇を引き結んだのを見て、伊達は苦笑し、そう言い直した。
 元々わかりやすいのもあろうが、伊達は真田の表情から感情をよく解する。
「日々着々とご回復のよし。近頃では起き上がられて直接采配を振るわれることもあり申す」
「うん」
 伊達が頷いて目を伏せ、笑う。
「そりゃ何よりだな」
 その顔を目にして、真田は己の心うちがざわつくのを感じた。なぜだか、まともに見ておられず、視線をそらしてしまう。そうしながら、目線を外したら外したで伊達の表情が気になって仕方がない。
「ま、政宗殿も……」
 畳の目を見つめながら真田は口にする。
「どうぞ御身お大切に」
「アンタに心配されんのもおかしな感じだがな。ありがたく受け取っとくぜ。それよりアンタ、朝飯は食ったのか」
「いえ、まだでござる」
「なら、ここで食ってきな」
「政宗様」
「いいじゃねえか」
 咎める声音の片倉を制して伊達が言う。堅苦しいのは性に合わねえ、伊達はそう口にして真田へと向き直った。
「昨日、奥州から米が届いた。まずは城代のアンタが試食してみな」
「なんと、もうすでに……」
 伊達から奥州の米を援助に送ると約束されたのはつい先日のことだ。その手際のよさに真田は感嘆する。
「小十郎の仕事は俺なんかよりずっと早いからな」
「お戯れを」
 片倉が律儀に平伏してみせる。だが、これも言われ慣れているという風情だ。気安い主従の雰囲気ははたで見ている真田にも感じられた。
「どのみち後で運ばせようと思ってたんだ。ちょうどいい。今、用意させるから待ってろ」
「は」
 真田はあらためて姿勢を正すと、深く頭を下げた。
「重ね重ね、かたじけのうござる。心より御礼申し上げまする」
「おいおい。堅苦しいのは御免だと言ったところだぜ。気楽にしてろ」
 そう言いながら、伊達はどこか面白げに真田を見ている。
「アンタってホント、生真面目だよなあ」
 脇息に肘をついて伊達が独り言のように呟く。
 その声音はなぜかひどく柔らかく、真田の胸に染みわたるように響いた。



(本文より一部抜粋)