伊達は腕に「それ」を抱いてひたすら途方に暮れていた。 傍らには己の六爪と、真田幸村の得物である二槍が無造作に投げ出されている。 枯れ果てたすすき野原で、それらは確かに先ほどまで激しく刃を交え、火花を散らしていた。 だが今は、振るい手を失って草むらに転がるばかりだ。あたりには風の吹きすさぶ音ばかりで人の気配はない。 互いに供の一人も連れていなかった。ゆえにこの場にあるのは伊達と真田だけということになる。だが、伊達が腕に抱く赤備えの装束の中に包まれているのは猛々しい若武者ではなく、いとけない幼な子であった。 * 狙われたのは伊達で、それを庇ったのが真田だった。 打ち合いの真っ直中であった。国同士のぶつかり合いから派生した対決ではない。あくまで手合わせの域を出ない、私闘と呼んで差し支えない程度のものだ。 その最中、突如現れた忍び装束に身を包んだ何者かが、こちらに向かって霧状のものを吹き付けてきたのだ。忍びは伊達の背後、右後方から迫っており、先に気づいた真田がとっさの判断で伊達を突き飛ばした。 弾き飛ばされた伊達は、それを浴びることは免れた。だが、代わりに真田がその得体の知れない毒液を全身に被ることとなった。 吸引性の毒か、それとも塗布性の毒か、伊達には判じかねたが、後者ならば露出の多い真田の戦装束は致命的だ。 間者は霧を散布したのみで、すぐに退散した。 反射的に追おうとしかけた伊達だったが、呻き声とともに崩れ落ち、草むらに倒れ伏した真田の姿に足を止めた。 「おい、真田!」 両の腕で抱き起こすも、真田は完全に意識を失っている。 やはり毒かと、伊達が舌打ちしかけた時だった。不意に己の腕から真田の重みがすっと消え去ったのだ。 次には目にもわかる早さで真田の手足が、胴が、縮んでゆく。 何が起こっている。何が。 だが、混乱する伊達をあざ笑うかのごとく、真田の身体はみるみる小さく、軽くなってゆく。このまま止まらず、やがて存在ごと消えてしまうのではないかと、己の想像に伊達が恐怖したとき、それは止まった。 この状況をまだ信じられない心地で、伊達は腕の中の変わり果てた真田の姿をまじまじと見る。 赤子ほどに小さくはない。だが、そのなりは幼い子どもそのものだった。輪郭はふくふくとして丸く、手足は短い。 紛れもなく、真田が先ほど浴びた薬の影響である。だが、こんな毒薬の話は噂にも聞いたことがない。 「勘弁しろよ……」 思わず天を仰ぐ。あまりにも奇異な事態に、普段ならば口にしたであろう異国語すら今は出てこなかった。 * ほどなくして各々の従者、片倉小十郎と猿飛佐助が駆けつけたときも、まだ真田の意識は戻っていなかった。 「政宗様……、その童はいったい……」 戸惑う片倉に対し、猿飛の察しは早かった。 「まさかちょっともしかして……それ真田の旦那?」 伊達の腕の中の子どもを指差し、恐る恐るこちらを見た猿飛に、伊達は頷いてみせる。 「はああ……勘弁してよォ」 先ほどの伊達と同じ呟きを口にして、猿飛ががっくりと肩を落とす。 「なんだって奥州くんだりまでやってきた挙げ句、そんなややこしい事態に巻き込まれちゃってるんですか旦那。お館さまになんて言おう」 その忍びの大仰な嘆きに呼応するように真田の瞼が震え、ぽかりと目を開けた。 真田の身体を腕に抱いたままだった伊達と図らずも目が合う。伊達もよく知っている、淡く明るい色彩の大きな瞳だ。そこにひどく澄んだ光をたたえている。 ぱちぱちと幾度か瞬きを繰り返したあと、もぞもぞと動き始めたので伊達は腕から下ろしてやった。 身体は縮んでも衣服はそのままだったため、寸法違いの上着を羽織ったその下は素っ裸である。だが、本人はあまり気にしていないようだった。 「ここはどこじゃ」 きょろきょろとあたりを見回す。その拍子に首にぶら下げたままの六文銭がぶつかりあう音がした。 「奥州の国境だ真田幸村。アンタは単身やってきてここで俺と打ち合ってた。……覚えてねえのか」 「おうしゅう? さなだ……ゆき……?」 首を傾げるさまは子どもの仕草そのものだ。どうも、ようすがおかしい。見た目の違和とは別に、伊達の中でざわざわと何かが警告を発している。 「そなたはだれじゃ」 大きな瞳がまっすぐに伊達を見て、言った。 「な……」 唖然とし、伊達が二の句を告げずにいると、割り込むようにして猿飛が真田の前に出た。 「ちょ、もしかして……弁丸様?」 「そうじゃ! べんまるじゃ! おぬしはそれがしの名を知っておるのだな!」 急に勢いづき、元気になった子どもを見下ろして伊達は眉を顰めた。 「弁丸?」 「真田の旦那の幼名ですよ。あっちゃあ、こりゃ中身まで子どもの頃に逆戻りしてますね」 (中略) その日も、真田の誘いにすげなく断りの返事を返したときだった。 いつもならばあっさり承知して庭へと戻る真田がじっと濡れ縁のそばに佇んだまま、動かない。 不審に思った伊達が、どうしたと声をかけようとした、そのとき。 「ましゃむね殿はべんまるのことがお嫌いなのだな」 そう言って、しょんぼりと肩を落とした幼な子に伊達は内心ぎょっとする。 「ちっともまなこを合わそうとしてくださらぬ」 それは真実そうであったので、伊達はひどく気まずい思いを味わった。何も言葉を返すことができずに、ただ黙っていると、子どもは消沈した風情で、だが淡々と続けた。 「嫌われるのには慣れておる。母上もべんまるのことがお嫌いだった」 「―――」 ぽつりとこぼされた一言に伊達は思わずはっとする。己の心の一部が過敏に反応したのがわかったが、あえて伊達は捨て置いた。 それよりも子どものようすが気にかかり、さりとて何と言葉をかけてよいものかもわからず、じっと次の言葉を待ってしまう。 子どもは俯いたまま、しばらく黙って己の草履を見つめていたが、やがて小さな手をぎゅっと握り締めると。 「慣れておるが、ましゃむね殿に嫌われるは、なぜかかなしい」 あ、と伊達が思ったときには子の顔が歪む。 「嫌われとうない……」 ぐしゅぐしゅと泣き出した子どもに、伊達はすっかり弱ってしまった。稽古での手合わせをねだって駄々をこねたときのように声を上げて大泣きしてくれたほうがまだましだった。 小さな肩を丸めて俯くさまは痛々しく、さすがの伊達もそれ以上見ていられなくなって、幼い真田を片腕で掬うように抱き上げると己の横へと座らせた。 「……嫌いじゃねえよ」 目線は庭先の木々を見つめたままで、ぼそりと呟く。 「ガキは少し、苦手なだけだ」 曇りのない眼で見つめられると、己のうちの何もかもを見透かされそうで――怖いのだ。 「お前を嫌ってるわけじゃない」 伝わっていないことを危惧して念押しする。本意は果たして届いたのか、子どもがようやく顔を上げた。 「男が泣くんじゃねえよ」 頭に手を置き、くしゃりと髪をかきまぜる。小さな頭蓋だ。簡単に伊達の掌におさまってしまうほどの。 真田はしばらくすんすんと鼻を鳴らしていたが、不意に何かに思い当たったような表情になると、ぴたりと泣きやんだ。 「ましゃむね殿、もう一度言うてくだされ」 「だから、男が泣くんじゃ」 「その前にござる!」 子どもの視線がじっと伊達を見つめてくる。やけにきらきらしているように見えるのは残った涙のせいのみだろうか。伊達は訝しがりながら先の言葉をなぞった。 「……『お前を嫌ってるわけじゃない』」 「つまりそれは、べんまるのことを好いておるということか?」 「はああ? 何てめえの都合のいいように解釈してやがんだッ」 照れくささも混じって、思わず大声を上げてしまう。 「違うのでござるか」 丸い目で不安そうに見上げられ、伊達はぐっと言葉に詰まった。わざとじゃない分、余計にたちが悪い。 「ッ……違わねえよ」 不覚にも頬が熱くなる。子ども相手に、と頭では思うのに止められなかった。 「うれしゅうござる!」 真田ががばっと立ち上がって、勢いのままに首筋へと抱きついてくる。 「おい、ちょっ……」 先ほど交わした会話の手前、離せとも言えず、伊達はされるがままである。 子どものふわふわとした柔らかい髪が頬に当たる。柔いのは髪だけではない。回された腕も、腹も、すべてが柔く温かい。 「べんまるもましゃむね殿のことを好いておりもうす!」 無邪気な笑顔で真田は言った。 子どもの素直さは時に残酷だな、と伊達は思う。 常の自分たちであれば決して交わされない言葉である。 もし己もこれと同じような小さな童であったなら――思うままに言葉を紡いだだろうか。 いや、きっと無理だと伊達は思い直す。 これは真田の資質。心のまま、恐れずに相手へ向かってゆける。まっすぐな心のありようだ。 「――今泣いたカラスが何とやら、だな」 涙と鼻水に濡れた顔を己の袖でぐいと拭ってやる。多少の汚れは厭わなかった。どのみち先ほど盛大に抱きつかれて着物はすでに駄目になっている。 「べんまるはからすではありもうさん」 きょとんとして見上げてくる真田に伊達は笑った。 「物の例えだ。いいから、一度顔洗ってこい真田。男前が台無しだぜ?」 「こころえもうした!」 大きな声で元気よく返事をした子どもが井戸のほうへと駆けてゆく。その後ろ姿を濡れ縁に座ったまま見送りながら、子が戻ってきたら今日こそは手合わせに付き合ってやろうと伊達は思うのだった。 (本文より一部抜粋) |