真田の虜囚となった伊達の話です。




 己の首筋へ当てられた金属の感触に、なるほどここかと足下を見つめる。石畳も玉砂利も敷かれていない土のままの地面だ。真田の屋敷は中だけではなく建屋の外も実に質素なものだった。その身分と立場を思えばもう幾分、華美なものにしても誰も文句は言わぬだろう。
 外門まではあと数間といったところか。もちろんそこに線などは引かれていない。だが、見えるようだった。屋敷をぐるりと取り囲む境界が。
「駄目だよ、竜の旦那。真田の旦那に断りもなしでどこへ行こうって言うのさ」
 伊達の喉元に突きつけられたくないが軽い声でそう言った。刹那、無色透明であるはずの空間が闇色にこごり、その中でもひときわ濃い塊がはっきりと人の形を現す。
「勿体ねえ話だな」
 黒霧から現れた人物に向かって、伊達は言った。
「アンタほどの忍びをたかだか男妾の見張りに当てるとはな。真田はものの使い方ってモンを知らねえ」
「へえ。珍しいこともあるもんだ。アンタが俺様の実力、高く評価してくれるなんてさ。随分と素直になったじゃないの」
 四六時中付きっきりでいるに違いないはずだったが、こうして男の顔を正面から見るのは久方ぶりだった。伊達の前でこの男はいつも薄い笑みを唇に浮かべている。
 ようやくくないを収めると、男は――猿飛はやはり笑みを浮かべたままで口にした。
「俺様、すっかり顔が売れちゃってねえ。でもって、この御時世だ。俺様ほどの忍びが動いちゃ敵も味方も、すわ何事かってなっちゃうからさ。仕方なく本来のお仕事は配下に任せて今は竜の見張り番。俺様がここでおとなしくしてる限り、武田は依然として安泰、堅固と諸国の忍びは見るわけだ」
 どこまでが嘘で本当か。忍びが口にすることを額面通りに受け取りはしないが、今の言葉はさもあらんと伊達には思われた。忍びを媒体とした表とは異なる裏の牽制である。そうして動かぬはずの猿飛が差し向けられた国は武田から叛心ありと見なされた、という警告にもなる。
「とはいえ、こうして屋敷ん中に篭もってちゃあ、腕がなまっちまうのも否めない。だから今みたいに竜の旦那がたまに脱走騒ぎを起こしてくれればちょうどいいんですがね」
「よく言うぜ」
 伊達は吐き捨てるよう口にした。
「俺が逃げる気なんてねえこと知ってたろ」
「まあね。アンタは馬鹿じゃないからなあ。単なる思いつきでコトを起こそうなんてことはしやしないだろう。そうして今みたいなことを、別の日、別の時間帯にやろうとも考えてる。違うかい?」
 そのとおりだ。今の伊達が考えつき、実行に移せることと言えばその程度だった。自ら積極的に逃亡をはかることはしないが、何かが起きれば的確に対処できるよう、置かれた状況を把握する。基本的なことだ。
「俺様としては是非とも逃げ出そうとするところをとっ捕まえて折檻して差し上げたかったんだけど。どうです、これから一戦」
 伊達は眉根をきつく寄せて猿飛を睨めつける。
「人をストレスの吐け口にすんじゃねえよ」
「すとれす?」
「鬱屈って意味だ」
 伊達は言い捨てて踵を返す。来た道を戻り、己にあてがわれている部屋へと向かう。その背後で猿飛の声がした。
「そりゃあ、独眼竜のことだろ」





(本文冒頭より抜粋)