なんちゃって大正浪漫パラレル。一本のお話をN-BEATの三浦かなこさんと章ごとに分担執筆する形式となっています。




 真田幸村の朝は早い。
 陽が上るのとほぼ同時に目覚め、またたきひとつで眠気の残滓を払って床から起き上がる。引き戸を開けて外に出ても、いまだ他の住民は寝静まっている。昼間は主婦や幼い子供らで賑わう共同水場にも人気はない。かすかに夜の気配を残した、しんと涼やかに澄んだ早朝独特の空気を胸いっぱいに吸い込んで、大きく伸びをすると身体の中に一日の活力の素となるなにかが染み渡ってゆく、その感覚が好きだった。
 なるべく音を立てぬよう気を遣いながら共同水場で顔を洗う。ぶん、とひとつ頭を振ると、一房だけ長く伸ばした後ろ髪が尻尾のように跳ねて水滴を飛び散らせた。
 濡れた肌を初夏の風が心地よく撫でてゆくのに目を細め、もう一度真田は身体を伸ばした。
 生まれ育った信州の片田舎から帝都へと出てきて二年が過ぎた。当初はひとの多さ、故郷とは時間の流れさえ違うような忙しなさに戸惑うばかりであったが仕事にも慣れ、ここでの暮らしにも随分馴染んできたと思う。
 からりと背後で戸が引かれる音がした。
「おはよ旦那、相変わらず早いねえ」
 生欠伸交じりの声をかけてきたのは同じ長屋に住まう同郷の幼馴染みである。
「おはよう。お主も珍しく早いではないか」
 猿飛は真田のように定職にはつかず、便利屋のようなことをやっている。幼い頃から目端が利いて身軽な彼には向いた生業なのだろう。贔屓にしてくれる店も複数あり、重宝がられているのは真田も見知っていた。
 時間の拘束がない仕事なので、特に予定のない限り猿飛の朝は真田よりだいぶ遅い。
「うん、ちょっと頼まれごとがあってさ」
 ふあ、ともうひとつ欠伸を零して猿飛は真田の傍らに立った。身体をずらしてポンプの前を譲ってやると、悪いね、と笑う。身を屈めて顔を洗う幼馴染みの背を見下ろした真田はふと思いついて口を開いた。
「佐助、まだ時間はあるのか」
「うん?ああ、まだ平気だけど」
「たまには一緒に朝飯でもどうだ」
 濡れた顔を上げた猿飛は目を瞬かせた。使わずじまいだった己の手拭いを放ってやると、受け止めたそれに顔を埋めながら小さく首を傾げてくる。
「いいけど、どうしたの急に」
「昨夜、政宗殿に折り詰めを頂戴したのだ。だいぶ量があるし、朝のうちに食べないと悪くなってしまうからな」
「政宗殿って……例の、藤屋敷の?」
 探るような猿飛の声に、うむ、と真田は頷いた。
「なんで華族の若様が旦那にそんなもんくれるわけ」
「昨夜は深川の料亭にお送りした後、政宗殿に頼まれて帰りまでお待ちしていたのだ」
「お待ちって、結構な時間だったんじゃないの」
「そうでもないぞ。どうも、あまり気の進まれぬ会合だったようだな」
 答えて真田は目を細めた。昨夜の伊達とのやりとりを思い起こせば自然と頬が緩んだ。



 悪い、なるべく早く抜けてくるからそこらで適当に時間潰しててくれ。そう告げると固辞する真田の手のひらに小さな点袋を押し込み、彼はするりと格子戸をくぐって行ってしまった。なるべく邪魔にならぬよう白塗りの土塀に車体を寄せ、自身も塀に背を凭れかける。そうして、雲間から顔を覗かせては隠す気まぐれな月の姿を見上げていた。
 こうやって客を待つのはそう珍しいことではない。再度手配をかける手間と、用事を済ませるあいだ俥夫を拘束する料金とを秤にかけて後者を選ぶくらい懐が豊かな者もこの帝都には少なくない。もっともそれほどに裕福な人間であれば専属の馬車や人力車を所有していることの方が多かったが。
 ともあれ俥夫として働き始めて二年の真田も、こうして客を待った経験は幾度となくある。それなのに、待ち人がかの人であるというだけでこうも心が浮き立つものかと思えば己の単純さに思わず苦笑が零れた。
 そうして一時間ほど過ぎた頃だろうか。表玄関が少し騒がしくなる。もの柔らかな女性の声に混じって伊達の声が聞こえ、真田は慌てて居住まいを正した。
 行きがけには持っていなかった風呂敷包みをひとつぶら下げて出てきた伊達は、ひょいと片眉を上げた。
「ずっとそこにいたのかよ」
「待っていろ、との仰せでしたので」
 そこで、とは言わなかったぜ。そう唇を尖らせた伊達は、だがそれ以上はなにも言わず身軽に俥へと乗り込んだ。
 座席に腰を落ち着けたのを見届け、真田は地面に落としていた持ち手を引き上げた。踏み出す一歩に力を込める。軋むような音を立てて動き出した車輪は、やがて勢いを得て滑らかに回転を始めた。
 所属する車屋で一、二を争う真田の脚力でも、深川から伊達の住まう屋敷までは小一時間ほどかかる。馬車を使えばその数分の一程度の所要時間で済むだろうに、伊達は私用での外出には必ず真田を呼ぶのだ。
 くしゅん、と小さなくしゃみの音がして真田の物思いを破る。急停車にならぬよう気をつけながら俥を止め、真田は振り返った。伊達はかたちのよい鼻の頭をわずかに赤くして手の甲で擦っている。
「申し訳ありませぬ、冷えましたか」
 過ごしやすい季節だが夜はまだいくらか肌寒い。風を切って走る車上にあれば尚更だろう。薄手の外套を羽織っていたので大丈夫かと思っていたが、己の見通しの甘さに真田は顔を顰めた。持ち手を下ろし、車体の脇へと回る。座席部分の下に隠すよう設えられた物入れから毛布を引き出して伊達へと差し出した。
「お使いくだされ」
「大袈裟なんだよ、アンタは」
 そう言いながらも素直に受け取った伊達は広げた毛布を膝にかける。それを見届けて定位置へと戻り、真田は再び駆け出した。
 そこから四十分ほど走り、見慣れた屋敷の屋根が視界に入ったところで足を緩める。極力車輪の音を立てぬよう気遣いながら、表玄関ではなく裏手へと回り込む道を進んだ。夜間の外出にも、その足に真田の俥を用いることにも、伊達の傅役である男はいい顔をしない。
 ふと、鼻先をよい香りがかすめた。顔を上げれば、薄紫の花房が塀の上から零れんばかりに咲き誇っているのが目に入る。藤の花だ。伊達の家系に由来のある花なのだと、いつか聞かされたことがあった。屋敷の広大な庭には立派な藤棚がいくつも組まれており、それゆえにここは近隣の者には藤屋敷とも呼ばれている。
 やがて目当ての裏門へと辿りつき、真田は足を止めた。
 ご苦労さん、そう言いながら伊達が俥から降りようとするのに手を差し伸べる。ほんの少し面映げな顔で、それでも素直に伊達は真田の手を取った。右手にかかる重みは一瞬だった。危なげなく地上へと降り立った伊達が凝った首を解すように軽く回す。その目の前に真田は先ほど押し付けられた点袋を差し出した。
「政宗殿、これを」
 開けてもいないが、洒落た唐紙で作られた袋の中身が折り畳まれた紙幣であることは知っている。伊達はひとつ瞬きをし、それから小さく肩を竦めた。
「取っときゃいいのに、相変わらず律儀な奴だな」
「そういう訳には参りませぬ。俥代は別に頂戴しておりますから」
「この石頭め。まあいい、分かった」
 苦笑した伊達は、真田の手から袋をつまみ上げた。頑なに拒まれなかったことにほっとした瞬間、代わりのようにずしりと重いものを押しつけられた。反射的に受け取ってしまい、真田は目を白黒させる。
「ま、政宗殿?」
「差し入れだ。これくらいは受け取れよ」
「し、しかし……!」
「中身はなまものだからな。アンタが要らねえって言うならごみになるだけだ」
 食い物を粗末にしたら罰があたるぜ?悪戯を成功させた子供のような顔で伊達が笑う。かあっと頬が紅潮するのを自覚し、慌てて真田は頭を下げた。



「――というわけでな。ありがたく頂戴してきた」
「……………ふうん」
 風呂敷包みを解き、三段重ねの器を卓袱台の上に並べながら、猿飛が胡乱な目で相槌を打つ。真田は鉄瓶に沸かした湯を持ってその傍らへと上がり込んだ。六畳一間に土間だけの簡素なつくりは長屋共通だ。土間の片側に小さな台所が設けられており、日々の煮炊きはそこで行う。
 猿飛と向き合って腰を下ろし、用意されていた急須に湯を注ぐ。安物の茶葉だがそれなりによい香りが立った。
「しっかし随分と気に入られたもんだね、旦那もさ。惜しいねー相手がお姫様なら逆玉の輿狙えたかもしれないってのに」
 軽口を叩く猿飛を真田は睨んだ。
「破廉恥なことを申すでない!」
 声を荒げてみたところで生まれたときからの付き合いである相手にはさほど効果はない。案の定猿飛は肩を竦めただけで、しれっと料理に箸を伸ばしている。
「はいはい。ま、今日のところはありがたくご相伴に預かりましょうかねー。お、すげえこの出汁巻き卵美味そう」
 鼻歌まじりで重箱をつつく猿飛をもう一度睨み、真田も負けじと箸を手に取った。
「ん、おいし。さっすが、一流料亭の味って感じ?」
 猿飛と同じ出汁巻き卵を口にし、真田も頷く。
「確かに美味いな。だが、政宗殿の作られたものには及ばんぞ」
「へ?なに旦那、伊達の若様の手料理食べたことあんの」
 まさか、と言いたげな顔の幼馴染みに小さく笑っただけで答えず、真田はひとくち茶を啜った。


    *


 伊達家は元を辿れば藤原摂関家の流れを汲むという名家である。東北に強い地縁を持つが、ご一新の際に当時の当主が一族とともに上京し、爵位を得た。以来、豊かな財力と由緒正しい血筋を併せ持つ有力な華族として、この帝都でも権勢を振るっている。
 政宗はその伊達家の嫡男だった。幼い頃患った病がもとで片目を損なっているが、端正な顔立ちとすらりとかたちの良い長身は十二分にそれを補っている。帝大に籍を置く優秀な学生でもあり、まさしく頭脳明晰、容姿端麗を体現するかのような青年だった。
 このようなひとが現実に存在するのだと、伊達を見るたびに真田は溜息を漏らしそうになる。
武家の血を引くとは言え、信州の片隅で、どうかすれば日々の食事にも事欠くような暮らしを送ってきた真田からすれば雲の上の人としか思えぬ相手だ。親しく言葉を交わす間柄となった今でも、時おり夢を見ているのではないかと不安になることがある。
 あの冬の夜に、伊達と行き逢わねば決して紡がれることのなかった縁だろう。奇跡のような邂逅であったと、思い返すたび、真田は見えざる者の手に感謝を捧げたくなる。


    *


 伊達と出会ったのは今から半年ほど前、昨年末の雪が降りしきる夜のことだった。そのひとつひとつの光景を鮮明に真田は記憶している。
 その日最後の客となるだろう初老の紳士を自邸まで送り届け、真田は帰路を急いでいた。雪がこれ以上酷くなる前に店に俥を戻してしまいたい。一日働いた疲労は溜まっていたが無人の車体は軽く、駆ける足にも力がこもる。
雪に覆われつつある街路に殆ど人気はない。年の暮れも押し迫ったこの季節、あたたかな家の中で過ごしたいというのは当然だ。早く己も家に帰り、猿飛が帰宅しているようなら一緒に鍋でもつつきたいものだと思いながら一層足を速めようとしたところで、視界の前方にぽつりと立ち尽くす人影が見えた。こちらの姿を認めたのか、その身体が小さく揺れる。明確に呼び止められた訳ではなかったが、真田は足を止めた。あと十五分も走れば店に着くというところだったが、大雪でさぞや難儀しているであろう客を見過ごすことは出来ない。
 ひとつ頭を振って雪を払い落とすと、お仕着せの黒い合羽からばさばさと白い塊が落ちる。それを踏みつけるようにして真田は己を止めた人間を見やった。
「俥の御用でしょうか」
 相手は、一見して裕福な身分と知れる出で立ちの青年だった。上質そうな黒のフロックコートにすらりとした長身を包んでいる。ガス燈の頼りない明かりに浮かび上がる顔は端正だが、長く伸ばされた前髪が右目を覆い隠している。勿体ない、そんな思いが頭をかすめた。
「………あの?」
 無言のままの青年を不審に思い、一歩近づいてその顔を覗き込んだ真田は思わず眉を寄せた。ひどく酒くさい。間近に見れば青年の頬は赤く色づいており、かなり酔っていることを窺わせた。
「あの、大丈夫ですか」
 答えようとしたのか口を開きかけた瞬間、ぐらりと青年の身体が傾ぐ。慌てて手を伸ばして支えようとしたが、どうにか自力で踏みとどまった彼にじろりと睨みつけられる。
「気安く触るんじゃねえ」
「これは失礼致しました」
 尊大な物言いだったが、不思議と腹は立たなかった。おそらく華族階級の人間なのだろう。命じることに慣れた響きがする。仕事柄、そのような人間の相手については真田もそこそこ経験を積んでいる。
 なんとか体勢を立て直したもののまだ足元が心もとない様子の青年に、身体を開いて己の俥を示す。
「どうぞお乗りくだされ。ご自宅までお送り致そう」






(略)






 物陰から現れた複数の長身の男に背後から腕を取られ、ねじ上げられる。完全に油断だった。
 声を上げるまもなく、抵抗を封じられた隙に素早く何かが口許へと押し当てられた。
 薬剤を染み込ませた布である。すぐにそれと悟った伊達はもがいたが、腕を掴む力は凄まじく、薬のせいで朦朧となる意識では抵抗もままならなかった。
 膝が崩れ落ちそうになる。先ほどの御者が驚愕に目を見開き、凍りついたように立ちすくんでいるさまが視界に映った。助けは望めそうにない。せめてここから逃れて人を呼んでくれるといいのだが、そんなことを考えながら、ほどなくして伊達の意識は暗闇の底へと落ちていった。


     *


 重い泥の中から無理矢理に引きずり出されるような不快な目覚めだった。
 身体を起こそうとして、伊達は己が身の自由を奪われていることに気づく。次第にはっきりとしてゆく意識のもと、置かれた状況を少しでも把握しようと五感を働かせた。
 屋内である。それも牢や小屋といった場所ではなく、かなり広い部屋だ。天井が高い。あきらかに和室のしつらえではなかった。伊達が横たわるそこは畳ではなく、外国風の寝台だった。四肢はその寝台へとそれぞれ繋がれる形で拘束されている。身動きはわずかしか叶わない。
 伊達は頭を左右に動かし、決して広いとは言えない片目の視界だけで部屋のようすを窺った。
 窓はあるようだったが、緞帳のような分厚いカーテンがかかっているせいか、室内は薄暗く、今が昼なのか夜なのか判然としなかった。ただ、寝台からは離れた位置の暖炉に火が入っていた。その前だけが奇妙に明るい。
 物音はといえば、その暖炉の燃えさかる木々が時折爆ぜる音だけだ。
 外套と上着は取り払われていたが、シャツ姿でも寒さを感じないのはこの暖炉のせいだろう。部屋は十分すぎるほどに暖められていた。
 伊達は何か手掛かりを得ようと懸命に己の身に降りかかった凶事の記憶を手繰る。
 目撃者は恐らくいない。人通りはまったくなかった。だが、伊達を拉致した男たちはまるで馬車がそこに止まることを事前に知っていたかのようだった。
 伊達の脳裏には御者の怯えたような風情が朧気に甦る。
 あの使用人はおそらくあの路地で馬車を止め、伊達を降ろせと命じられてはいたのだろう。だが、そのあと何が起こるかは知らされていなかったに違いない。
 馬車から降りた伊達を背後から襲い、即座に眠らせて攫ったのは見事な手際としか言いようがなかった。おそらく、こうしたことを生業としている連中の仕業であろう。
 身代金目的の誘拐か。それにしては目に入る調度類が豪奢に過ぎるのが引っかかる。伊達がその身を横たえられている寝台も、肌に触れる寝具も決して粗末なものではなかった。むしろ最上級のものと言っていいだろう。こうして伊達が四肢を伸ばしていてもその面積にはまだ余剰がある。極めつけは天蓋付きであることだった。天蓋から垂れ下がる薄布は飾り紐でまとめられている。その細工ひとつ取ってみても豪華なものだ。どう考えても金に困ったようすはないように思えた。
 金が目的ではないのなら――真っ先に考えられるのは徳川に対する妨害だ。
 人好きのする性格で求心力を持った徳川は味方も多いが敵も多かった。とくに儲けのためなら手段を問わない層は義を重んじる徳川の存在を煙たがっている。
 薬を嗅がされ眠らされていたのが、いかほどの時間であったのかは伊達にはわからない。だが、伊達がいつまで経っても屋敷に戻らなければ、何かあったと察するだろう。その庇護を受けている立場上、伊達は徳川に無断で外泊するような真似は一度もしたことがなかった。
 どれほど心配しているだろう。それとも、すでに伊達の拉致を企てた賊から何らかの接触が成された後かもしれない。
 伊達は思わず唇を噛み締め、瞼をぎゅっと閉じた。徳川の世話になっている身で、この上このような迷惑までかけるとは。己の不甲斐なさに眩暈がしそうだった。
 なんとしてでも、ここから逃れなければならない。焦る伊達の耳に重い扉の開く音が響いた。
 誰かがこちらへやってくる気配。靴音はしないことから床は絨毯敷きであると予想がついた。
「――いつまでもお目覚めにならぬゆえ、少々心配いたしましたぞ」
 明朗な声音には覚えがあった。伊達の狭い視界に人影が入る。逆光で焦点を結ばなかったものが徐々にその輪郭を露わにする。
「お前は……」
「お久しゅうございます、政宗殿」
 洋装を纏った姿は見覚えないものであったが、その顔は伊達がよく知る形をしていた。
 一目見る限りでは紳士然としていて、少しばかり印象は異なるが――間違いない。
「真田、なのか……?」
「覚えておいでであられたか。いかにも、真田源二郎幸村にございます」
 忘れるはずなどなかった。いつも心のどこかにその姿はあった。気づいた恋情には叶わぬものと蓋をしたが、淡く仄かな思慕の念とともに伊達は彼を心のうちへと住まわせていたのだ。
 記憶の中の真田は、常に俥夫着に足袋を履いた姿だ。洋装を身につけているさまなど目にしたことはなかった。だが、このような装いも似合うのだなと状況も忘れ、伊達はぼんやりと思った。
 精悍な顔立ちは一向変わらず、一方で少し鋭さを帯びた輪郭が真田を大人びて見せている。少年の面影を残したあの頃の甘さはなくなっていた。
 初めて見た洋装姿にあらためて見目がよかったのだなと思わされる。もしここが夜会の場ならば各家の令嬢たちがきっと放ってはおかないだろう。
「――よい格好でござるな」
 伊達を現実に引きずり戻したのは、そんな真田の冷たい声音だった。嘲りを帯びた響きに伊達は眉根を寄せる。
「さな、だ……?」
 真田は鋭い目つきで伊達を見下ろしていた。それは今までに見たことのない真田の表情だった。
 伊達は真田の、自分を見つめてくる眼差しを覚えている。少し眩しげに目を眇め、控えめに、だが熱い視線をまっすぐに伊達へと注いでくる。はにかんだような表情、夢を語るときの瞳の輝き、屈託のない笑顔、それらすべてが今の真田からは削ぎ落したように失われていた。
 今、伊達を見下ろすその視線はただ昏く、それでいて燃え盛るような焔を孕んでいる。同じ熱さでもあの頃とはまるで異なるものだ。
「なぜ、アンタがここにいる……」
 それは問いかけというより呟きに近いものだった。
 周囲の豪奢な調度品に劣らぬその装い。触れずともわかるほど上質の布で仕立てられた衣装を身に纏い、拘束された伊達の姿を満足げに見下ろして薄い笑みを浮かべるこの男が、己を救いに来たのではないことくらい、伊達にもわかる。彼はここの『主』だ。
 だが、それでもなお伊達には信じ難かった。別人ではないかと幾度も思った。これは悪い夢だ。そうとしか考えられない。
「徳川殿は用心深うござるな」
 真田の口から徳川の名が出て、いきなり伊達は生々しい現実へと引きずり戻された心地がした。
「こちらの手の者を潜り込ませようとしても、新しい人間は容易に採らぬ。かといって、元からいた者たちを籠絡しようにも金品で主を売るような不届き者がおらぬ」
 やはりあれは敵の手の者だったのだ。伊達は己の推測が正しかったことを知った。つまり、あの御者を徳川家の使用人に潜り込ませるところから計画は始まっていたというわけだ。
「なかなかにつけいる隙がなく、準備にこれほどまでの時を経てしまい申したが、――ようやく、そなたをこうして手に入れることができた」
 真田がふと微笑む。それは成し遂げた者の浮かべる笑みだった。
 明かされたからくりに理解はできても、感情が追いつかない。呆然とする伊達を置き去りにしたまま、真田は上着を脱ぎ捨てた。そうして寝台へ腰かけると身体を捻り、仰向けに転がされている伊達の上へと圧し掛かる。
「今から貴殿を犯す」
 宣言は唐突だった。真田の顔には先ほどまでの笑みはない。能面のように表情という表情が削ぎ落とされていた。
「なにを……言ってるんだ、真田」
 顔と顔が近づく。内心の怯えを悟られたくなくて、伊達にはただ睨みつけることしかできない。
「そなたのせいにござる」
「だから何を――」
「某が何も知らないとでもお思いか」
 真田の凍るような声音に伊達はびくりと身体を震わせた。
 何を知っているというのだろう。徒食の身に零落れた己の姿を真田は知っていると言いたいのだろうか。
 このとき伊達は己を恥じた。
 睨み合った目線同士を伊達は己から外してしまった。それが真田の中の何かに触れてしまったらしい。
 突如、乱暴な手つきでシャツの襟元を掴んだかと思うと、真田が強引にそれを左右へと割り開く。その勢いに貝製の釦が弾け飛んだ。露わになったそこへ真田の手が触れる。





(本文より一部抜粋)