Baptize「黒」の続編となります。身体の関係から入って、後から恋愛を始める二人。




 目を伏せる。
 昼下がり、主の居室に聞こえてくる物音はほとんどない。時折、耳に入るのは庭の立ち木で羽を休める鳥の鳴き声のみだ。
 伊達は座したまま、瞑目し続ける。
 だが、次第に眉根の皺が深く刻まれてゆくのが己にもわかった。わかってはいたが、止めることはできなかった。拳を握る。こうして一刻にも満たない間ですら、じっと座しているのがとてつもなく難儀なことに感じる。
 伊達は左目を開けた。
 戻った視界に飛び込んでくるのは、変わり映えのせぬ己の居室である。周囲ばかりが変わらない――
 伊達は目前の書見台を腕で払いのけ、立ち上がりざまに脇息を蹴り飛ばした。それらは畳を転がり、壁や柱へとぶつかって派手な音を立てる。
 そのまま、ずかずかと畳を踏みつけながら出口へと向かい、障子扉を勢い任せに開いた。そこで、伊達は足を止める。
 折悪しく茶を運んできた侍女が障子の前に控えたところであったらしい。
 室内で起こった突然の物音に驚き、続いて目に入った中の惨状に座したまま身を固くする侍女の姿を目にして、伊達の胸に一瞬にして後悔の念が満ちる。伊達の癇癪に慣れている老年の者ならともかく、城仕えに上がったばかりといった風情の若い娘には酷な状況だろう。だが、おいそれと謝罪を口にできる身分でもない。
 それでも言わずにはいられなかった。すれ違いざまに「すまん」と小さく一言のみ残し、伊達は自室を出る。そのまま、脇目も振らずに稽古場へと向かった。



 稽古場ではただひたすら一心不乱に刀を振るった。しかし、心の乱れは太刀筋にこそ率直に表れるもの。己の動揺を映し出されたような気がして、ますます伊達は追い詰められることになった。
 それでも、息が完全に上がりきるまで伊達は刀を振るのをやめなかった。
 稽古場の外から聞こえてくる野鳥の鳴き声がいつしか鴉のそれに変わっていて、知らぬうちに夕刻となっていることに気づいた。
 刀を置き、稽古場を出て、今度は近くの井戸へと向かう。そうして諸肌を脱ぐと水を汲み、井戸端で何度も冷水をかぶった。暦の上では春だが、奥州のそれは遅い。吹き付ける風は冷たく、陽の落ちかけた刻ではなおさらだった。だが、伊達の暴挙を止める者もここにはいない。稽古場に入る前に人払いをした。伊達が呼ばわるまで誰も近づきはしないだろう。
 身体がすっかり冷えてしまっても伊達は水をかぶり続けた。ついには腕が持ち上がらなくなるまでそうしていた。
 井戸の縁にもたれかかるようにして座り込み、項垂れる。酷使した腕や肩が鉛のように重かった。
 ずぶ濡れの身体から滴り落ちる滴を眺めながら、伊達は呟く。
「……ざまあねえな」
 そう言葉にして己をあざ笑ってみても、心の乱れは一向おさまることはなかった。



 乱世における甲斐武田の勢いは凄まじかった。
 属性持ちの大将の両脇を、同じく属性持ちの武将と忍びが固め、士気高き兵に加えて屈強な騎馬隊を擁する武田軍は当世無敵といってよかった。
 属性持ちは戦場において一騎当千の力を持つ。
 伊達軍の属性持ちは大将である伊達ただ一人である。もちろん、それが単純に勝敗を決するものではない。ただ、不利は不利に違いなかった。複数を同時に相手することにしても、各個撃破するにしても、属性持ちの総数は戦局に大きく影響する。
 そうした意味では織田軍は相当の戦力を有していたが、明智光秀の謀反によりそれもあえなく崩れ去った。織田方の混乱の隙を見逃さず、一気にそれを呑み込んだのが武田だ。織田を降した武田は徳川、今川、北条と周辺諸国を次々と傘下に収め、ついには長年の宿敵であった越後の上杉をも撃ち破る。
 破竹の勢いで進撃を続ける武田は加賀前田を降伏させたその一方で、ついに奥州へと攻め入ってきた。降伏勧告は何度かあったが、それは形だけのものだ。前田とは異なり、天下への野心に溢れた奥州の伊達を武田は看過するつもりなどなかったのだ。





(本文冒頭より抜粋)