金科玉条 |
午後の執務を終えるのを待ちかねたかのように急ぎ足で新一のもとにやってきた灰原の表情を目にしたときから嫌な予感はしていたのだ。 一見すると無表情、しかし登極する以前より長い付き合いのある新一には彼女の怒気が十分に読み取れた。 そして黄医である彼女にそんな気配を纏わせる原因はひとつしかない。 快斗だ。 「わっかんねえよ。麒麟が王気を感じられるからって、その逆が成立するわけじゃねえんだし」 「いいから探して」 「オメーな……」 灰原は問答無用というように玉座の前に立ち塞がったままだ。 新一は肘掛に頬杖をついて灰原を見やる。 「何も攫われたわけじゃねえんだろ。腹が減りゃ勝手に戻……」 最後まで言えない。 そんな単純なことならば私がわざわざこちらへ足を運んだりはしないのよ、と灰原の目が語っている。 実際、普段ほとんど人前に姿を見せない灰原がこうして外殿までやってくるのは珍しいことだった。 事は新一が思うよりも重大なのだろう。 王宮へやって来て間もない快斗が子どもらしい好奇心にかられて姿を消してしまうことは珍しいことではなかった。意外にやんちゃなのだ。けれど同時にとても周囲に心を配るところがあった。世話してくれている人々を徒に心配させるような真似はしない。 それなのに今日に限って行方も告げずに仁重殿を飛び出していったきり、ずっと姿を見せないという。 「今朝はいつもどおりだったの。けれど朝議から戻ったときには様子がおかしかったわ」 「………」 原因に心当たりがないわけではなかった新一は沈黙し、頬杖を解いた。 そんな新一の態度にますます確信を深めたのか、灰原は言った。 「麒麟にとっての特効薬は王気なのよ。不安にさせたのは貴方でしょう。責任を取って」 玉座に詰め寄りかねない勢いの灰原を遮るようにして新一は手を上げる。 「わあった。わあったよ。探して連れ帰るって」 「ここ数日夕暮れとともにとても冷え込むの。見つけられないまま夜を迎えたら許さないわよ」 「へいへい」 鋭い目線で睨みつけられて新一は肩を竦める。この女史に口で勝てるはずもなかった。 「あいつ、俺んこと絶対に王だと思ってねえよな」 ぶつぶつと呟きながら新一は園林の入り組んだ道を迷いなく歩いてゆく。西陽がゆっくりと傾いてゆくのを視界の端に映す。園林の清涼な空気がひんやりと肌を撫でていった。確かに灰原の言うとおり、この様子では冷え込みそうだ。新一は歩調を早めた。 普段滅多に使われることのない四阿の裏、白い花をつける丈の低い常緑樹がある。その花の名を新一は知らない。けれど快斗がその花を好んでいることは知っている。 「たぶん、ここだな」 枝を横に払う。樹木の根元、緑の芝の上にうずくまる小さな影。 「当たり」 新一は静かに呟く。 快斗は王気で新一が近づいてくることは察していたはずだ。それでも一切の迷いもみせず快斗のもとへとやってきたことが意外だったのか、驚いた顔をして新一を見上げてくる。その瞳が濡れていた。 「また泣いてたのか」 見下ろすと、快斗が慌てて袖口で乱暴に目許を拭った。 「泣いてなんかねえもん」 ぶっきらぼうな声が精一杯の虚勢を張る。そんな態度が蓬山でなかなか自分だけに打ち解けようとしなかった頃の快斗を思い出させて、そう昔のことではないのに新一は懐かしさを覚えた。 「意地っ張り」 少し笑って抱き上げる。 新一の腕に包まれてしまえば快斗は素直になる。頭を新一の肩に埋めてまたしくしくと泣き出した。 子ども特有の高い体温が衣服越しに染み渡ってくる。 「ん? どした?」 快斗は答えない。面を伏せたまま小さな肩を嗚咽に揺らすばかりだ。 『不安にさせたのは貴方でしょう。責任を取って』 灰原の言葉が脳裏に甦る。 「――快斗。俺はお前を置いて逝ったりしねえよ」 びくりと腕の中の子どもが身体を強張らせる。 やはりこのことかと新一は思いながら、その背をゆっくりと撫でた。 本日の朝議は半ばより軍議に変わった。 その時点で新一は快斗を仁重殿に帰したのだ。いや、帰したつもりだった。 軍議の後、服部を使って信の置けるわずかな臣だけを秘密裡に集め、新一は彼らに伝えた。 万一、自分が討たれたときには何をおいても台輔を守り、決して偽王が立つことのないように、と。 麒麟を捕えられ偽王が立てば麒麟は次王の選定に入れず、天命が尽きるのを待つばかりとなる。その年数分だけ国の復興は確実に遅れるのだ。 もちろん新一にむざむざと討たれるつもりはまったくない。勝算があるからこそ戦場に赴くのだ。 しかし想定される危機には手を打っておくのが王の務めだと新一は考える。 誤算はその新一の言葉が快斗の耳に入ってしまったらしいことだ。 新一らを驚かせようとしてどこぞに隠れていたのかもしれない。快斗に盗み聞きをするつもりはなかったのだろう。 人払いをした結果、悪戯好きの台輔の行動を見咎める人間もいなくなり、新一自身も快斗の気配に気づけなかった。潜んでいるのは悪意を持った人間ばかりではないのだ。己の不覚としか言いようがない。 「聞けよ快斗」 子どもをあやすように快斗の背中をさすりながら、新一は言った。 「俺は登極するにあたってひとつだけ自分の中で決めたことがある」 視線を遠くにやれば、いよいよ陽は傾き、眼下の雲海とその狭間から垣間見える里を緋色に染め上げていた。 今日という日が終わる。 悠久の歴史の流れにあっては何度も繰り返されてきた光景だろう。歴朝の王たちはここからどのような想いでそれを眺め続けてきたのか。いかなる朝にも落日のときは必ずやってくる――。 「快斗。俺が死ぬのはお前が死んだ、その後でだ」 他者が額面どおりに聞けば眉を顰めそうな言葉をさらりと口にする。それから少し口調をあらためて言った。 「俺は自ら退位は申し出ない」 ――この意味がわかるな? 言外に問うた言葉を受けて、快斗が顔を上げた。虚を突かれたような表情。少し唇の開いた口許が幼い。濡れた目許を親指の腹で拭ってやって微笑みかける。 「心しておけよ?」 快斗の頬をまた涙が零れ落ちた。 「……そのほうがうれしい。ずっとうれしい……」 「そっか」 新一が笑うと、快斗が感極まったように顔を歪めた。また泣き出してしまうのを隠すようにぎゅうぎゅうと顔を押し付けてくる。 退位を申し出ない。 この選択が王として正しいのかどうかは知らない。 これは蒼王としてではない、工藤新一として決めたことだ。 快斗が二王にまみえることは絶対にない。 「しんいち」 縋るように快斗がぎゅっと新一の衣を握り締める。 「オレを置いてかないで」 「ああ」 「ひとりにしないで」 「ああ」 消え入りそうな声は、しかし切実な色を含んでいて、しっかりと新一と耳に届いた。 「ごめんな。怖がらせちまったな」 快斗の黒い髪に掌を梳き入れて、額に触れないよう注意しながら頭を撫ぜる。 蓬莱で両親を喪い、たったひとり残された記憶は、新一が想像する以上に快斗の中で重いのだと改めて知らされる。 与えられた愛情が大きかった分、突然の別離の悲しみはいかほどだったか。 快斗はまだこんなにも幼く、まして柔らかな心を持った麒麟だ。 「必ず戻る。お前のもとに」 今の蓬莱において戦は非日常の出来事なのだと聞いている。そんなところで暮らしていた快斗が戦場に身を置く新一の身を案じて人一倍怯えるのは無理もなかった。 けれど。 「俺は行かなきゃなんねえ」 もうお前みたいに親を亡くして泣く子どもの姿は見たくねえんだ、心の中で付け加える。 「わかるな?」 大きな黒い瞳がこちらを見ている。ひどく幼いのに、どこかその瞳の奥にはこの世の理を達観したかのような老成さを備えていた。 たとえ今は堪えきれず涙をこぼしても、最後には新一の覚悟も矜持もすべて受け入れる。 そんな瞳だった。 新一が思ったとおり、快斗は素直に頷いた。 「お前は肝の据わった麒麟だな」 微笑んで、快斗の頭を抱き寄せ、もう一度自分の肩に押しつける。快斗は何も言わなかった。逆らわず、その身を新一にただ預けている。 新一も無言のまま、快斗の心音や呼気を感じながら、しばらくそうやって暮れなずむ景色を眺めていた。 「さてと」 あたりが完全に闇へと呑まれる前に灰原の言いつけを完遂するべく、新一はからりとした声を出した。 「そろそろ泣きやまねえと帰れねえぞ? お前のそんな顔見せたら、また灰原に何言われっかわかんねえからな」 「うん」 ごしごしと乱暴に目許を拭って顔を上げたときには、快斗はもうくっきりとした笑顔を浮かべて見せた。 「……んとにお前は」 くしゃくしゃと髪をかきまわす。この小さな麒麟が愛しくてならなかった。 「腹減った新一」 「ああ、俺もだ。戻ったら何か食おうぜ」 鼻と鼻をくっつけて悪戯っぽく笑い合う。 傍目に見ればとても主従とは思えないに違いない。親子とも兄弟ともつかない自分たち。 わかっているのは、互いの拠りどころは互いの存在だけだということ。 大綱、地綱、この世に尊ぶべき法令は数多ある。秋官時代、飽きるほど取り扱ってきた。振りかざしてきた。けれど今の自分にとって遵守するべきはただひとつ、この存在と交わした約束のみだ。 |
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登極後まだ間もない頃。国情がまったく安定していないので新一が戦場に赴いてばかりの頃でもあります。新一って賢帝と暴君、紙一重的な感じのする王さまだなあと。名君が後年暴君になるパターンじゃなくて最初からずっと危うい感じ。そして快斗の存在がそのストッパーであると同時にトリガーでもある、そんなイメージです。 |