T ango
D elta
S ierra




 ひどいと思う。

「いや、そんなにマジで弱いなんて知らなくてさ。作り物でもダメだなんて……」
 言いかけて何を思い出したのかは知らないが、新一が笑いを堪えるようにして口許を手で押さえ、横向く。
 快斗は恨めしげにそんな新一をベッドから睨みつけた。

 ひどいと思う。

 百歩譲って、新一が知らなかったとして。
 入り口であれほど嫌がった快斗を引きずるように中に連れ込んだ事実は消えようはずもない。
 しかも、その表情は嬉々としており、瞳は爛々と輝いていた。
 そう。百歩譲るまでもない。あれは絶対に確信犯だった。
 だいたいここに快斗を誘った新一がどんな催し物があるのか、事前に把握していないはずがないのだ。
 ヒトデのモチーフを見た途端、そこがどういう場所か悟った快斗が「騙したなーッ!?」と叫ぶのを尻目に「なんのこと?」と白々しい素振りで返した新一の表情を、今また苦々しく思い出す。



 恐怖のパーク内を連れ回される間、快斗はほとんど新一に縋りつくようにして目を背けていた。
 思えば、それが新一の目的だったのではないかと、今ならわかる。
 最後に連れてこられたのは、クジラの腹の中を模したショップだった。
 そこで目にしたものたちに、快斗の緊張と恐怖はピークに達する。
「も、だめ……」
「快斗!?」
 見事に卒倒して、地面にぶつかりそうになったのを新一にすんでのところで抱きかかえられた。
 客の異変に気づいた周囲のスタッフ(キャストと呼称するらしい)がさっと寄ってきて、土産物を買い漁る他の客も何事かと足を止め、あっという間にちょっとした人だかりができてしまう。
「ねえ、あれって高校生探偵の工藤新一じゃない?」
「ほんとだ。テレビで見たことあるよ、あの顔」
 朦朧とする意識の中で快斗の耳は野次馬の声を拾った。
 これだから有名人は……、ただでさえ目立つというのに彼の腕の中で同年代の男が倒れていれば目立つことこの上ない。新一の姿に何か事件でも起こったのか、とざわめきが大きくなる。
 そんな中で新一は「救護室どこですか?」とキャストの一人に確認するやいなや、そのまま快斗を抱き上げた。いわゆるお姫さま抱っこというやつである。今度は別の意味で卒倒しそうになった快斗に構わず、「すみません、道を開けてください」とまるで現場で出すようなきびきびとした声と動作で、人だかりから快斗を連れ出した。
「わたしたちがお運びしなくても?」
「だいじょうぶです。道の案内さえしていただければ。彼、けっこう軽いですしね」
 言葉どおり軽々と快斗を抱いてキャストに微笑んでみせる。
 まるでヒーロー気取りじゃねえか誰のせいでこうなったんだよ、頭上の新一に向かってそう言ってやりたいのは山々だったが、快斗はその胸にぐったりと身体を預けるしかなかった。本当に気分が悪かった。
 救護室の看護婦まで人魚だったらどうしよう……遠のきそうな意識の中で不安に思った快斗だったが、さすがにそれはなかった。



「気分、どうだ?」
「よくはねーけど、マシにはなった」
 白い壁と天井、ようやく普通の空間に身を置いて落ち着きを取り戻した快斗に、傍らの新一もコトの経緯はどうあれ、一応ほっとしたようだった。
「今日はもうこのままここに泊ろう快斗」
「何言ってんだよ」
 窓の外を見やれば確かに陽は落ちているが、十分に帰宅できる時間だ。
 だいたい気分が悪くなったくらいでテーマパークの救護室に泊めてもらうなんて無茶な話――
「気づいてないのか?ここ、ホテルの中の施設なんだぜ?今からフロント行ってチェックイン済ませてくるから。もうしばらくここで休ませてもらってろ。な?」
「そんな急に部屋なんか取れんのかよ」
「さっきお前が寝てる間に電話で確認した。空室あるってさ。外泊するって、あとでお袋さんに伝えておけよ?」
 こういうときの新一のテキパキとした行動は頼りがいがあって思わず安堵してしまう。
 まんまと新一の術中にはまっているだけかもしれないが――
 それでもいいと思わせる何かが新一にはあって、快斗はもうそれで過去何度も墓穴を掘ってきた。
 今度もその予感がする。
 けれど、やっぱりそれでも構わないと快斗は思い、横たわったベッドの上で、ひとり静かに目を伏せた。
「オレもたいがい物好きだよな……」



***



 設備の説明をひととおり終えて、ベルマンが慇懃に一礼する。
「では、何かありましたらお申しつけくださいませ」
「ありがとう」
 にこやかに応対する新一とは対照的に、快斗は部屋に通されたときからその内装に呆然としていた。
 ベルマンが去ってから、慣れた仕種で優雅にソファーに身を沈めた新一に向き直り、叫ぶ。
「ちょ、おま……ここスイートじゃねえか!」
「うん。そうだけど?」
 何か問題でも?という顔で新一は快斗を見上げてくる。
「他に部屋、空いてなかったし」
「スイートしか残ってなかったんならそう言えよ!」
 きょとんとしている新一から部屋の奥に視線を移し、快斗はふたたび脱力感に襲われる。
「しかもダブルベッド……」
「キングサイズだから狭かねえぜ?」
「――ああ、そうだろうな」
 問題はそんなことではないのだが、もはやこの男には何を言っても通じまいと快斗はすでに諦めに似た境地だ。
 しかし項垂れる快斗に、新一も何か感じるところがあったのか、「快斗?」と控えめな声で名を呼び。
「なあ、……もしかして気に入らねえか?」
 少し不安そうに訊く新一に、快斗は思わず顔を上げて叫んだ。
「もったいねーだろ!」
「へ?」
「ああ、もういい」
 快斗は頭痛を堪えるように額に手をやって、言った。
「……いくらだよ?」
「え?」
「半分払う。いくらだ?」
「五十万」
「―――」
 また卒倒しそうになった。
「新一……悪いけど、オレ今日は手持ちがねえ……」
「いいって。こないだ請け負った事件の依頼料が入ったところだったんだ。おごるよ」
 そう言われてしまえば、快斗は黙るしかなくなる。実際、一介の学生である自分には半額分ですら耳を揃えて渡すのは無理な話だ。
 下手を打つと、新一相手に身売り……なんて話に転がりかねない。
 やぶへびとならぬうちに、ここは素直に相手の言葉に甘えることにする。

「快斗も座ったら?」
 促されて新一の向かいのソファーに腰を下ろす。
 柔らかな感触に身体を預け、快斗は背もたれの上で仰向き、呟いた。
「それにしたって……お前の金銭感覚には正直ついていけねえよ」
「園子に比べりゃぜんぜんマシだと思うんだけどな?」
「財閥のお嬢様、引き合いに出されてもな……」

「快斗」
 不意に上から顔を覗き込まれる。
 いつの間にか立ち上がった新一がすぐそばまで来ていた。
「これは、おごりって言うより、お詫び」
「詫び?」
 快斗は仰向いたまま、目を眇めて新一を見る。少し、新一が目をそらした。
「……快斗、あんまり楽しめてなかったみたいだからさ。せめて部屋くらいは最高のものを選びたくて」
「お前は楽しんだもんな……オレ見て……」
 恨みがましい声を出すと、新一は悪びれることなく言った。
「だから、悪かったって。けど、まさかあんなに怯えるとは思わねえじゃねえか、相手はだって作り物のサカ」
「その名をオレの前で出すんじゃねえ」
 地を這うような低い声で告げた快斗に、新一が言葉を呑み込む。しかし目が笑っている。このヤロ、まだ楽しんでやがるな。快斗はますます目を眇めて新一を睨みつけた。
 それには気づかないフリで、新一が部屋の時計に目をやって言った。
「もう、こんな時間か。今からレストランに予約入れるのも面倒だな。ルームサービス取ろうか。お前、何か食いたいもんあるか?」
「シーフードでなけりゃなんでも」
 快斗の投げやり気味な言葉に新一が苦笑する。
「ちゃんと肉料理もあるって。ほら、選べよ」
 メニューを差し出されて一通り目を通し、予想はしていたがまたその値段に眩暈がしてきた。
「おにぎり2600円ってどういう了見だ。具にキャビアでも使ってんのか」
「ホテルなら普通だろ。どうする?コース頼む?」
「お前はそうしろよ。オレはこのお茶漬けがいい。梅茶漬け」
 快斗の答えに新一がわずかに眉を顰めた。
「食欲ないのか?」
「残念ながら」
「デザートも?」
「今はいらない」
 甘いものに目がない普段の快斗を知る新一にとって、それは衝撃的な発言だったようだ。
「ごめん。ほんとに悪かった快斗」
 項垂れた新一を見上げて、快斗は溜め息をつく。
「……ようやく反省したか」
「ずっとしてるよ」

 そのとき、窓の外で花火が上がった。思わず、二人とも目をやる。新一が無言のまま部屋の照明を落とした。月明かりと花火の光に照らし出される室内。遠くの景色が色とりどりに輝いていた。
「ほんとは夜のショーがいいんだ」
 窓の外に目をやったまま、ぽつりと新一が口にした。
「ああ、らしいな」
 話には聞いている。いつだったか、友人とここを訪れたことのある青子が熱心に語ってくれた。
「すごく有名なのに、お前行ったことないって言ってたから。お前、ああいうの好きだと思ったんだ」
「………」
 確かに――頭にサのつく例のアレが出てくるまでは、自分は楽しんでいた。夢のような空間。子どもも大人も、みんな笑顔だった。ああいう空気は、好きだ。どこか懐かしい、しあわせの原風景。

「お前はさ、いつも人を楽しませてばかりだから……。たまには自分も楽しんで欲しかったんだ」
「十分楽しんだぜ?――今も楽しんでる」
 新一が振り返った。
「快斗」
「こんな部屋、普通じゃ泊まれねえし? 数千円のお茶漬けってのも話のネタになるだろ」

「快斗」

 ソファーの上で抱き締められる。新一が縋りつくように快斗の襟首に顔を埋めた。
 そのままなし崩しのようにソファーに押し倒されそうになって、快斗は笑う。
「ルームサービス、頼んでくれねえの?」
「………快斗」
 直前でおあずけを食らった犬のように新一が情けない表情で顔を上げた。その鼻を軽く摘んで。
「夜はまだ長いんだぜ?新ちゃん」
 それでもまだ未練がましく腰から手を離そうとしない新一に、宥めるよう快斗は言った。
「オレはどこにも逃げも隠れもしねえからよ」
「本当に?」
「ほんと、ほんと」
 笑って軽いキスを頬にしてやる。それを複雑そうな表情で受けて、新一が立ち上がる。
「ルームサービス」
「かしこまりました」
 恭しく頭を下げて新一が電話台へと向かう。
「ついでにデザートも」
「食欲戻ったのか?」
「うん。気分よくなった。せっかくなんだから、ホテルご自慢のデサートを食わない手はないだろ」
「パンナコッタとティラミス、どっちにする」
「あれ?オレにそゆこと訊く?」
 手近にあったクッションを抱き込んで、上目遣いに新一を見やる。新一が肩を竦めてみせてから、笑った。
「わかったよ。両方だな。それからメニューには載ってないスペシャルデザートも、だろ?」
 物分かりと察しのいい恋人に、快斗はいたく満足して笑みを浮かべた。
「スイートに宿泊してる客のリクエストを退けるほど野暮なホテルじゃねえからな。で、姫はどんなドルチェをお好みで?」
「任せるよ」
「了解」


 また花火が上がって、その淡い残像が新一の横顔を照らし出す。
 ――綺麗だ。
 夜空に咲く満開の花火も幻想的な光と音楽のショーも、たぶんきっと自分にとってはこの存在の前に霞んでしまう。

『お前はさ、いつも人を楽しませてばかりだから』

 新一、オレはそれでいいんだよ。
 それがオレの望みだから。
 けれども目敏い探偵は、快斗本人ですら忘れてしまった何かを見つけて、なおかつ黙ってやり過ごすことができなかったようだ。
 無条件に笑えていたあの頃。
 自分が楽しんでいるということすら忘れて与えられるすべてを楽しんでいたあの頃。
 目の前に次々と繰り広げられた魔法。
 夢のような空間。
 懐かしい、しあわせの――

 
「新一、お前さあ……」
 電話を終えて戻ってきた新一に向かって、快斗は腕の中に抱え込んだままだったクッションを思いきり投げつける。
 もちろん新一は咄嗟にそれを受け止め、抗議の声を上げた。
「おいテメエ、いきなり何すっ……」
「最初からここ、予約してただろ?」
 にやりと笑ってみせると、新一があさっての方向へ目をやる。
「何言って……」
「『先日頼んでおいた例の』って何だよ?」
「快斗お前……唇、読んだな……?」
「聞かれたくねえ話なら口許は隠さなくちゃ、工藤探偵?」
「読唇術なんて厄介な特技もってる恋人はそういねえよ」
 快斗の唇に人差し指を押し当て、新一が身体を乗り上げてきた。今度こそソファーに押し倒され、身動きできなくなる。
「すぐにルームサービス来ると思うんだけど?」
 新一の掌を押しやって、快斗が逃げ道を探す。
「キスだけな。もうさっきからどれだけおあずけ食らってると思ってんだ?」
 言うなり、強引に唇を、今度は新一のそれで塞がれた。
「新……ッ」
 逃げる舌を追って、口づけが深くなる。こういうときの新一は執拗で、すぐに快斗の身体は力をなくした。
「明日こそはショー見て帰ろうな」
 唇を離すと同時に新一がそう言った。肩で息をしながら快斗は答える。
「……あいつらが出てこないならな」
「だいじょうぶ」
 新一が笑って。
「そのときはまたオレがお前のそばにいてやるから」
「それのどこかだいじょうぶなんだよ!」
 叫ぶとまた唇を塞がれた。
 抗議に持ち上げた腕もあっさりと押さえつけられてしまう。
 おそらくルームサービスがやってくるまでこの状態なのだ。

 やっぱり術中にはめられた。

 新一の、絡め取るような口づけを受け入れながら、快斗は観念する。
 この先に待っていることも容易に想像はつくが、きっとそれも拒むすべを持たないまま、自分は受け入れるだろう。

 なにせ夢の国の夜は長いのだ。






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