夏日


+++ day of summer



「おいおいおいおい」

 コンビニのビニール袋を下げてやってきた平次は部屋に入るなり呆れた声を上げた。

「お前ら、何へばっとんねん。ええ若いもんが揃いも揃って情けないのう」
 革張りのソファーにその身を横たえた工藤は、平次の大声にうんざりとした顔を向けただけで、無言のまま、また元のように沈み込む。
 かたや、フローリングの床の上に直接身を投げ出し寝転がっていた黒羽が額の汗を拭いながら、こちらを見上げて口を開いた。
「せやかて服部君」
 訴えるような声音で。
「ネイティブの君とはちごうてオレら余所モンなんやで? 生まれてからこっち、亜熱帯で暮らしたことなんかあれへんのやもん」
「そんなけ関西弁扱いながら、よう言うわ」
 平次はさらに呆れたような顔をしてみせてから、黒羽の眼前にビニール袋を突き付けた。
「そんなネイティブも真っ青な黒羽君に、お・み・や・げ」
「え、なになに?」
 がばりと起き上がって平次の手からビニール袋を受け取る。その黒羽の旋毛に向かって言う。
「練乳入り黒蜜かき氷」
 黒羽が歓声を上げた。
「服部君、愛しとうよ〜!」
「お前ホンマはどこの人やねん」
 平次は笑いながら、工藤の対面に位置するソファーに腰を下ろした。
 そこから、嬉々としてカップの蓋を開ける黒羽を眺め、しみじみと言う。
「ホンマに自分、見かけによらず甘いモン好っきゃなあ」
「うん。よく言われる」
 黒羽はそう答えて、木のスプーンで溶けはじめた氷の表面を掬い、口へと運ぶ。しあわせそうな顔。思わず平次も顔を弛めた。


 工藤の部屋のクーラーが故障した。
 ちょうどそちらへと向かっていた途中の平次の携帯に電話をしてきたのは一足早く到着していた黒羽。
 すぐに修理屋に来てもらう手筈は整えたけれど覚悟して来いよ、ということだった。
 修理屋を待つのは家主の工藤に任せて、自身はどこぞで涼んでくればいいというのに律儀に付き合ってやるのが黒羽である。
 もっともそんな工藤の部屋を約束どおり訪問する平次も同類と言われてしまえば反論の余地はない。
 いちばん一人暮らし歴が長いくせに、どうも工藤は危なっかしくていけない。
 ひとたび事件が絡めば誰より俊敏な行動を取って事態の解決に全力を上げる工藤だが、自らの日常における雑多なことについてはまるで頓着しない。平たく言えば、やればできるのに面倒がってやろうとしないのだ。
 おそらく修理屋を調べて電話したのも黒羽だろう。
 東京の親元を初めて離れ、一人暮らしを始めたばかりの黒羽のほうが、放任されてきた工藤よりずっとしっかりしていた。


「修理屋、まだけえへんのか」
「すぐだって電話では言ってたんだけどな。道混んでるのかな?」
 しゃくしゃくと氷を崩して、黒羽が二口目を掬った。
 そこでふと思い出したようにビニール袋の中を探る。
「あ、やっぱり。工藤、工藤、お前の分もちゃんとあるぜ? レモンかき氷、これ工藤の分だろ?」
 黒羽がスプーンを咥えたまま、平次に向かって確認する。平次は頷いた。
「せや」
 それから半目になって。
「……無駄になりそうやけどな」
 目の前にだらしなく横たわった工藤の姿を眺めやった。
「なあ、溶けちまうぞ? 工藤ー、食わねえのかー」
 黒羽の呼びかけにも身を起こす気配がない。
「くーどーうー。冷たくて旨いぜ?」
「いらね……」
 ようやく声が返った。
 その力ない響きに、平次は苦笑する。
「バッテバテやな。東の名探偵も大阪の夏の前には形無しや」
「しゃあないやん。工藤はえーとこのボンやもん」
 また黒羽が関西弁を器用に扱って言う。まだ会わせたことはなかったが、舌足らずなそれは、平次の幼馴染みである遠山和葉の物言いにどこか少し似ていた。
「温室育ちやから、こうゆうんには慣れてへんねん」
「はは、そんとおりや」
 そんなやりとりにはしっかり反応して、工藤が半目でこちらを睨みつけてくる。おそらく「自分だってボンボンのくせに」ということだろうが、平次はそれを綺麗に無視して床に胡座をかいた黒羽へと向き直った。
「それにしてもお前、たいしたやっちゃなあ」



***



「それにしてもお前、たいしたやっちゃなあ」
 感嘆したような服部の呟きに快斗は顔を上げた。手許のかき氷はほとんどなくなっていた。食わねえんなら工藤の分ももらっていいかな、とそんなことを考えていたときだった。
 ソファーに座った服部が興味津々といった顔でこちらを見ている。探偵の顔になる一歩か二歩ほど手前。
 あまりよろしくない予感がした。
「何が」
「その喋りや。言葉だけやない、イントネーションもアクセントも完璧。オレらの口真似にしたって、まだお前がこっち来てから半年も経ってへんのやで。工藤なんかちぃとも馴染めへんのに」
「その気がねーからだろ」
 天賦の才の持ち主と謳われた女優の血を色濃く継いだ彼なのだ。耳もいい。工藤がそのつもりになれば、いとも簡単にマスターしてしまうだろう。ただ覚える気も使う気もないだけなのだ。
「いやいや、それにしてもや」
 服部は首を振った。
「お前、実はモノマネとかも得意なんちゃうか?」

 ――直球ど真ん中ストライク。

 快斗の心臓は素直に跳ね上がった。
 彼らにこの地で出会ってから数ヶ月。快斗がもう何度も味わってきた感覚だ。
 調子に乗りすぎた。実地で覚えた関西弁を操るのが新鮮で、新しい遊びを覚えた子どものように、ついやってしまった。
「なあ、黒羽。なんかやってみせえや。誰でもええで。オレでも工藤でも」
 冗談じゃない。シャレにならない。
「そんなこと急に言われても……」
 快斗は服部から目をそらし、ぼそりと言った。
「無理でおまんがな」
「なんや、それ」
 わざとらしくハズしてみせた関西弁に服部が笑った。今日のところは、なんとかこれで誤魔化されてくれそうだ。もっとも記憶の片隅にはしっかりと刻まれてしまったことだろう。彼らの観察力と記憶力はほんの少しだって侮れない。
「ごちそうさま。かき氷、旨かったよ」
 快斗は話を区切るように立ち上がった。
「少しは涼めたか」
「うん」
 リビングに面したキッチンへと向かい、食べ終わったカップはそのままゴミ箱へ直行させずに水で一度すすぐ。こうしたちょっとした心がけが衛生上の問題を軽減するのだ。家主の工藤はよく面倒がっていたが、快斗はこうしたことが苦ではなかった。
 余った工藤の分は冷凍庫へと放り込んでおく。
 工藤がこのまま手をつけないようなら、また後でいただくとしよう。


 リビングを見やると、相変わらず工藤はソファーに沈没したままだった。
 最初こそ壊れたクーラーに何やかやと悪態をついていたものの、徐々に口数が減り、ついには無言になった。
 太陽は西に傾きつつあるが、室温は上昇する一方。
 高層階だというのに窓を開け放していても今日に限って風はさっぱり通らない。
 もう今さらだったが、自分が留守番を引き受けて彼をどこか近場のカフェにでも送り出せばよかったと快斗は思う。
 工藤がこんなに暑さに弱いだなんて知らなかったのだ。
 タフな探偵のイメージばかりがあったが、実はそうでもないらしい。思い出してみれば、過去にもよく風邪を引いていた。子どもの脆弱な身体ゆえかとも思っていたが、その育ちも関係ありそうだ。雑草のような自分とは大違いだと快斗は内心で苦笑する。


「買ったばっかで故障するなんて工藤もよくよくついてねーよなあ」
「おおかた説明書もろくに読まんと乱暴に扱ったんちゃうか」
 工藤が耳にすれば「お前じゃねえんだから、それはねえ」とかなんとか言いそうなものだったが、やはりソファー上からの反応はない。
「それにしても、えらい遅いな」
 壁の時計を見上げた服部に快斗も頷く。
 本当はクーラーの内部を見てやれそうなら自分が修理してしまってもよかったのだが、また彼らの前で多芸多才っぷりを披露するのもどうかと思い控えておいたのだ。
 けれどこんなに修理屋が遅れるなら服部が来る前にこっそりとやってしまうべきだった。
 ――匙加減が難しい。
 彼らに、どこまで見せて、どこまで隠せばいいのか。
 でもきっと正解は――何も見せないことなのだ。何ひとつ。
 思ってもみなかった居心地のよさにずるずると留まり、ついには彼らと夏を迎えてしまいつつあることに、快斗は暑さのせいだけではなく眩暈を覚えそうになった。


「だめだー。暑い……」
 庶民で雑草育ちと自覚するも、やはり暑いものは暑い。
 かき氷でとった涼はさして長持ちしなかった。
 快斗はシャツの前の釦を幾つか外し、布地を掴んでパタパタと扇ぐ。
 そんな快斗に服部の声がかかった。
「あ、コラ、黒羽」
「ん?なに?」
「そない大胆に前はだけとったらあかん」
「なんで?」
 首を傾げる快斗に、服部はとある方向を睨めつけ、顎をしゃくる。
「あっこから、バテとるはずの工藤君が、やんらしぃ目で見とんで?」
「え」
 言われて思わず快斗は工藤のほうへと目を向ける。ソファーに寝転がったままの工藤と目が合う。工藤はばつ悪げに目を逸らした。
「……ほらな。あいつサイキンおかしいんや」
「るせえよ、服部」
 のっそりと工藤が起き上がった。
「誤解を招くような表現はよせ」
 前髪を鬱陶しげにかきあげて、工藤が面白くもないといった風情でぼそぼそと口にする。
 対する服部もさして揶揄するようなようすはなく、淡々と言い返す。
「事実やろが」
 そんな二人のやりとりに快斗はどう反応したものか決めかねて、シャツを掴み締めたまま、なんとなく天を仰いだ。
 確かに服部に言われずとも、工藤の物問いたげな視線はここのところ頻繁に感じていた。
 ただ正体を疑われているような節もないので、やり過ごしていたのだが。
 あえて言うなら、迷いのような――まさか真実に気づいて糾弾するのを躊躇っているとか――?
 考えて、それはないと打ち消す。
 躊躇いなど、この潔い探偵には似合わないし、ありえない。
 真実を掴んだならば、こちらに隙を与える間もなく、確実に包囲網を組み上げてしまうことだろう。
 崩壊の兆しは未だ訪れていないはずだ。――快斗は、そう考える。
 どうにも消せない、燻るような不安を抱きつつ……。


「服部」
 不機嫌そのものといった表情の工藤が気怠げにその名を呼んだ。
「なんや?」
「ペリエ」
 工藤の簡潔極まりない要望に服部が大仰な溜め息をつく。
「……お前なー、キッチンまでの距離くらい歩けや」
「冷蔵庫の前なんかに行ったら最後、そっから離れられなくなりそうなんだよ……」
「それもそやな。お前の性格やったら」
 服部が仕方なさげに立ち上がってキッチンへ向かう。なんだかんだと言って面倒見のいい男だ。でなくては工藤の友人などやってられないのかもしれないが。
 服部から手渡された緑色のペットボトルを傾け、中身を一口飲んだ工藤はあからさまに眉を顰めた。
「冷えてねえじゃねえかよ」
「ああ、もう、我侭なやっちゃなあ!水道水でも飲んどけや!」
「飲めるわけねえだろ、あんな水」
 こちらに来てから、ことあるごとに大阪の水の不味さを服部に訴えていた工藤が今回もそれに触れる。
 しつこいくらいに繰り返されたネタで、服部もさすがに気を悪くしたようだ。
「そない文句言うんやったらフランスからでもどっからでも空輸させたらええねん。飲み水から風呂の水まで全部な!」
 暑さのせいか、こちらも発火点が普段より低くなってしまっている服部の横から、快斗は工藤にグラスを差し出した。
「はい、工藤。冷蔵庫の奥のほうにあったの開封しちゃったけど、いいだろ。こっちなら冷えてるから」
「ん」
 受け取ってごくごくと一気に飲み干す。
「おかわり?」
 快斗の問いかけに工藤が頷いた。差し出されたグラスによく冷えたそれを注いでやる。
 そんな様子を横目に、服部がお決まりの大袈裟な溜め息をついて額に手をやった。
「黒羽はコイツ甘やかしすぎるわ」
「服部も飲む?」
 快斗は素早く、用意していた服部用のグラスを差し出す。
 絶妙のタイミングで仲裁されたことに、もちろん服部は気づいていて、ちょっときまり悪そうに受け取った。
「おおきに」
 そのタイミングでインターホンのチャイムが鳴った。
「ようやくお出ましやな」
 快斗はインターホンに駆け寄って家主の代わりに応対する。
 探偵二人の関係がこれ以上暑さによって険悪になる前に、すみやかな処置が必要だった。



***



「工藤、お前ちょっとほんまにサイキンおかしいで?」
 バイトのため黒羽が先に帰り、それを待っていたかのように服部が言った。
 部屋は冷涼な空気を取り戻し、窓の外もすっかり闇に沈んでいる。
 活動停止を余儀なくされた昼間の分を取り返すべく、ソファーで読書にいそしんでいた新一は対面に座った服部を胡乱げに見つめ返した。
「何が言いたい?」
「お前、なんちゅー目で黒羽、見とんねん」
「……蒸し返すなよ」
「暑さでイカれてもうたんか?」
「かもしんね」
 なげやりに答えて、また手許のハードカバーに視線を戻す。それを遮るように服部が言った。
「肯定すんなや」
「じゃあ否定する。オレは至って普通だ」
「あんなあ……そうやのうて……」
 食い下がる服部に、新一は溜め息をついて本を閉じた。
 服部の目を誤魔化せるなんて思っちゃいない。正直に白状するほうが早そうだった。
「あいつ、なんか頼りないよな」
「あいつって」
「黒羽に決まってんだろ」
 今まで誰の話をしていたと思っているのだ。
「言わせてもらうけどな、オレから見たら、工藤。お前のほうが黒羽の百倍は頼りないわ」
 服部の呆れた声に新一は首を横に振った。
「いや、そういう意味じゃなくて」
 新一は口許に手をやって、昼間の黒羽の姿を脳裏に甦らせる。
「なんか存在が……希薄ってえのとも違うんだけどさ……」
 むしろ存在感はある。
 出会ってから数ヶ月。黒羽快斗という人間の確かさを新一は肌で感じてきた。
 立場柄、新一は数多くの人間と相対してきた。その積み重ねてきた経験から、言動や振舞い、所作から人物の人となりを読み取ることにかけては自負がある。
 黒羽は単に頭の回転が速く、勘がいいだけの人物ではなかった。
 強い。けれど脆さも知っている。
 確固たる信念を内に秘めながら、清濁合わせ飲むことができるような面も持っている。これは自分にはないもので興味深かった。
 快活で、よく笑う。けれど一方で、湖面のような静けさを纏っているときがある。
 子どものようでいて大人びている。
 いい加減に見せかけて、要所は外さない。
 面倒見がいい。けれど押しつけがましさは微塵もない。
 柔らかで、しなやかな精神。
 次々に浮かぶ印象はどれも好ましいものばかりだ。

 ただ、どこか――遠い。

 薄様を隔てた向こうに何かあるような、けれどその隔てを破り裂いてしまえば途端にそれは霧散してしまうような、そんな不確かさを新一は黒羽に感じるのだ。
 しかし、いつもなら雄弁さにかけては右に出る者がいないと称される自分がそれをうまく説明することができない。
 それに気になるのは内面だけではなかった。

「頼りないってのは、首とか肩とか背中とか、そういう身体の……」
「おまわりさーん。ここにヘンタイがひとりおりますよ〜」
 あからさまに揶揄する服部の口調に、新一は思わずカッとなって、その手にあった本を目の前のセンターテーブルへと叩きつけた。
「じゃあ、お前は思わねえのかよ!あいつ十九の男にしては線細すぎだろ!肌とか白いし肌理細かすぎだろ!」
 突然の新一の激昂にも動じる気配はなく、むしろ服部は感心したように口にする。
「ほんま、よお見とるなあ」
「性分なんでな。――なんかまるで……あれじゃ……まだ、子どもみてえだ。……やべえよ……」
 自分で口にしておきながら居た堪れない気分になって、新一は目を逸らした。
 これでは服部の言うとおり本当に変質者だ。
 そんな新一の内心を知ってか知らずか、服部があっさり言う。
「そらオレも思うけどな。そんな視線向けられても黒羽も困惑するだけとちゃうんか」
「だから隠してんだよ」
「おま、それ、ぜんっぜん隠せてへんわ」
 服部が力いっぱい否定するのに、新一は本気で凹みそうになる。
 今日は厄日だ。さっさと寝るに限る、と新一が腰を浮かせかけると、服部の低い声がそれを呼び止めた。
「待・て・や」


「ちゃうやろ工藤。黒羽見ながら、お前の考えとったこと、それだけちゃうはずや」


「………」
「オレの目を欺ける思ってんのか」
 新一はまた溜め息をついた。
 本当にこれだから、優秀な探偵の友人など御免こうむりたいものだ。自分のことは棚上げして新一は思った。
 観念してソファーへ再びその身を沈み込ませる。
「……そろそろ、距離を、置こうかと、思うんだ」
「そない苦々しい声で言われてもなあ」
「るせえ……」
 反駁は力ないものとなった。
 図星だったからだ。
 ふと服部の方を見やると、彼は眉を寄せ、心底不機嫌そうな表情を浮かべていた。
「なあ工藤。お前の気持ちもわからんでもないけどや。そうやってヤツらとのカタつくまで、お前誰ひとり友人も作らんと大学生活終える気か?」
 責めるような服部の口振りに、やはり気づいていたのかと新一は思う。
「そりゃ、あの灰原っちゅう姉ちゃんが昔やろうとしてたことと同じやないけ。オレはそんなん認めへんぞ」
「服部」
 この友人のまっすぐさにはいつも敵わない思いにさせられる。
 だから新一も正直に吐露するのだ。

「怖いんだ」

「何がやねん」
「………」
 答えない新一の代わりに服部が指を折って挙げてみせた。
「黒羽から離れられんくなること、黒羽が巻き込まれること」
 服部の言葉はいつだって直球でシンプルだ。新一は苦笑した。そしてまた素直に認める。
「両方」
 そう答えたあとで、新一は居住まいを正し、服部を真っ直ぐに見据えた。
「服部。――お前は探偵だ。オレと同等の力を持ってる」
 当たり前やという顔をして服部が頷く。
 そう。だから多少の不安を押し殺してでも、そばに置けるのだ。
「――でも黒羽は違うだろ?」
「けど、それは」
 服部が何か言い募ろうとする前に、新一は言った。
「確かに頭は相当切れるが、でも、あいつは普通の学生なんだ。巻き込めねえよ……」
 語尾は弱々しいものとなった。
「守ったったらええやろ」
「簡単に言うな」
 服部の言葉に苛立ちを覚えて新一はぴしゃりと言い返した。けれど、服部がそれで怯むようすはない。
「せやけど工藤。だいたい今さら、どないして、あいつ遠のけるつもりやねん」
「それは……」
 痛いところを突かれて新一は押し黙る。
「できもせんくせに」
 服部の言うとおりだった。
 証拠に、取るべき道を理解していながら、選択を先延ばしにしてきた自分がいる。
 新一は組んだ指先の上に額を押しつけ、自嘲の笑みを浮かべた。
「……これじゃ、全部置いてこっち来た意味がねえ」
「意味がないやと? 失礼なこと言うなや。オレがおるやろ」
 服部が本気で気分を害したように声に怒気を込める。
「そういうわけじゃなくて……」
 わかっているだろうに。そんな言い方をする服部に新一は苦笑するしかない。
「黒羽にも失礼や。あいつお前が思うほど頼りなくもあらへんで?」
 真剣な口調だった。服部の人を見る目が確かなことは自分だってよくわかっている。
「やさしいだけやない。一本芯の通ったヤツや」
「うん。知ってる……」
 だからこそ。


 だからこそ絶対に彼を巻き込むようなことだけは避けたいのだ。
 彼のような人間をどんな形にせよ、自分たちが追う犯罪組織になど関わらせたくはない。
 そこまで考えて――

 新一は黒羽の肌蹴たシャツの間から覗いた、薄い胸と鎖骨をふと思い出す。


 何かが――新一の胸に引っ掛かっている。遠い記憶のどこかで。何かが――


「まあ理由は何にしろ、あんまり妙な目で見てっと、黒羽のほうから身のキケン感じて逃げ出すかもなあ」
「服部、てめえ……」
 真剣な表情を一転させて茶化す服部を、新一は遠慮なく睨めつける。
 深刻な空気を和らげようとする服部の意図はもちろん了解済みだ。内心で感謝する。
「とにかく、この件は少し保留にしようや。――まだ、ヤツらに目立った動きはあらへんのやろ?」
「ああ。今のところはな」
 新一は頷いてみせた。ただ、それも時間の問題なのだと、内心で思いながら。
「ほなな、工藤。オレも帰るわ」

 服部を送り出し、ひとりになった部屋で再び新一は読みかけていた本を手に取った。
 頁を繰りながら、けれどその内容はまるで頭に入ってこない。
 諦めて本を閉じる。
 静まり返った部屋でソファーの背に身を預け、新一は目を伏せた。


 いずれ、そう――いずれは本気で考えねばならないことだ。
 たとえ服部が何と言おうとも。


 だけどもう少しだけ。
 季節が本格的な夏を迎えるまで――真夏日がやってくるまで、もう少しこのまま――


 ――このままでいさせてくれ……。






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