愛しき子らへ





 いつ何時たりともポーカーフェイスを忘れるな。



 そんな親父のありがたい格言は、そのときオレの頭からすっかり吹っ飛んでしまっていた。

「ゆゆゆゆゆ優作さん!?」
「なんだね、快斗くん」
 不自然にもほどがあるくらい奇抜にどもるオレを前にしても、工藤優作氏の優雅な笑みは崩れなかった。


 米花センチュリーホテル。
 “仕事”の下見として訪れたことは何度かあるが、こんなふうに黒羽快斗のまま、宿泊客として部屋に通されるのは初めてのことだ。
 もちろん、部屋に入って五秒でベッドへと押し倒され、完璧に身の自由を封じられるのも初めての体験である。


「あのぅ……工藤センセ? 何をなさろうとしてらっしゃいます?」
 かろうじて笑みを口許に貼りつける。ポーカーフェイスには程遠いが、それでも何とか体勢を立て直そうとオレは必死だ。なのに――
「君が思っているとおりのことだよ」
 にこりと、綺麗な微笑みをひとつ。――まっさかさまにオレを地獄へと突き落とす。
 新一もよからぬことを考えているときは、よくこんな顔をしてみせたが、これはその比ではない。率直に言って怖い。怖すぎる。
 上着の前はとっくの昔に全開だ。シャツもほとんど肌蹴られ、大きな掌が今まさに中へと入ってきた。素肌に直接触れられて、いよいよオレは切羽詰る。
「綺麗な肌をしているね。若いとはこういうことか。この瑞々しいハリと弾力は十代のものだね」
 ああ、いつか新一もこんなエロ親父になってしまうのだろうか。今も、その片鱗がまったくないとは言い切れないから、可能性はおおいにある。
「それにしても君は細すぎやしないかね。意識してウェイトを絞っているのかな。ご覧、腰なんて私の片腕におさまってしまうじゃないか」
 もっと食べたほうがいいよ育ち盛りじゃないか、と口にしているのは歳相応の親らしい台詞だが、その手が!オレの腰を撫でさする手が!いやらしい動きであること、この上ない。
 そうこうしてるうちに、上半身を這いずりまわっていたほうの手が胸の先端を突き止め、――
「―――ッ!」
 声を洩らさなかったのは上出来だった。
 しかし指先で容赦なくそこを摘み上げた張本人は、オレの反応を見て「感じやすいんだね」とにこにこ満足そうに笑っている。
 まずい。このままでは非常にまずい。
「こ、こ、こんなこと、やめましょうよ!」
「どうしてだい?」
「せ、先生には綺麗な奥さまがいらっしゃるじゃないですか」
「ああ、そうとも有希子は美しい。私の永遠の女神だよ」
 うっとりと語る優作氏。
 なら、どーしてオレなんかに手を出すんだ!
 その間も優作さんの指は動きを止めない。実は、胸に施される愛撫には弱くて、さっきからずっと気を逸らせているものの、下腹部が少しずつ反応してきてる。これも新一の努力の賜物……ではなく、そう、とにかく新一のせいだった。あいつが胸ばっか触るから、オレの身体が覚えちまったんだ、くそっ。――などと悪態をついている場合ではない。
 拘束されていない両腕で押し返せばいいんだろうけど、残念ながらすでにそれは初手から試みている。軽くいなされること数回。何度目かで「縛って欲しいのかね?」と笑顔を向けられ、オレは凍りついた。やりかねない。――というわけで、オレは両腕の抵抗を封印した。最後の砦として両の腕の自由は残しておかねばならない。
 こうなると残っているのはこの口先だけだ。
 海千山千という言葉がぴったりくるこの大人を前にして、どれほど通用するものか皆目わからないが、それでもやるしかない。オレは覚悟を決めて息を吸い込む。

「優作さん!浮気は許さないんだから!」

 どうだ。永遠の女神の美声で糾弾される気分は。
 頼むから我に返ってくれ。
 しかしオレの願いも虚しく、優作さんは怯むどころかおおいに興味を引かれたらしい。
 瞳が生き生きと輝き出したのがオレにもわかった。
 ならばこれでどうだと次の手を繰り出す。

「と、父さん、やめてよ……!」

 “あの”新一がこのような可愛げのある台詞を口にするか否かはともかく(たぶんというか絶対しないだろう。名探偵なら問答無用で容赦ない蹴りを入れて試合終了だ)、さすがに息子の声をベッドで聞けば萎えるだろう。もともと似ているらしい声だから期待は薄いがそれでも――というオレの考えは甘かった。
 優作さんは何やらフンフンと頷いて。
「父と息子の禁断の愛か。いやはや、君もずいぶんと面白い趣向を振ってくるね」
「いや趣向じゃありませんて!」
 うわーん、もうやだ、このひと。何言っても通じないし!つか、聞こうとしないし!
 新一は傍若無人だったけど、まだ会話はできた。それがどれほどありがたいことだったかを思い知る。工藤の血筋でありながら、あれは奇跡だったんだ、突然変異だったんだ。
 もうだめだ。どうしよう。
 そうこうしてる間にもシャツは腰から引き出され、釦はいつのまにか全部外されている。手ェ、早!マジシャン並だ。いや、それ以上。なんて器用なひとなんだ。……って感心してる場合じゃねえよオレ!
 とにかく藁にもすがる思いで、何か脱出口はないかと必死で頭を回転させる。
 予測不可能な相手だ。常識ではかってはいけない。ベタなネタでもやってみるしかない。意外にそういうのが効くかもしれないのだ。

「工藤先生!今日が締切ですよ!原稿お願いします!」

 真顔に戻った。
 やった!
 これで萎えてくれたか。
 と思ったが、工藤センセの真顔の理由はそうではなかったらしく。

「その声……私の担当の彼だね。うちにかかってきた、あの、ただの一度きりの電話で?」
 このひとにしては珍しい、心底驚いたような顔で見下ろされ、オレはおずおずと上目遣いで答える。
「あ、ハイ。一度聞けば忘れないんで」
 優作さんが目を伏せた。深く深く、何かに感じ入ったように息をつく。それでも、その腕の力は弱まることはなくて、まー、ほんとに隙のない御方だ。

「素晴らしい。本当に君は黒羽氏の息子なんだね」

 やさしい目がこちらを見ていた。
 オレは一瞬毒気を抜かれてぼんやりそれを見返した。
 何かを懐かしむ、瞳。
 何かって、そりゃ決まってる。
 親父だ。
 このひと、今、オレを通して親父を見てる。
 丸わかりだった。
 でも、それはオレを不快にすることは一切なく、むしろ優作さんの切ない想いが流れ込むように伝わってきて、オレの胸に迫る。


 ……親父のこと、好きだったのかな。




「って! 何してんですか!」
「え? いや続きをね」
 気づけばベルトは抜かれ、学生服のズボンはファスナーまで下げられている有様で。


「ちょ!むり!マジでむり!むりですってば、優作さん!」
 腰を撫であげられた。オレは息を詰まらせる。
 わーもー!だめかも。だめかもしんない。流される。ほんと弱いんだ。
 敏感なのは本当だった。新一がオレを変えた。畜生、新一。お前のせいだぞ。
 掌や指先の感じが新一と似ている。この十本の指がキーボードを叩き、稀代の名作を世に送り出してゆく。元女優の美しい女性を抱く。そして今、オレの身体を好き勝手に這い回る。
 下着の中に手を突っ込まれ、無造作に掴み上げられた。
「アッ……!」
 ついに高い声を上げてしまった。
 羞恥と恐怖。
 だってその瞬間、優作さんの目が変わったからだ。今までのような悪ふざけをしている目じゃない。男の目だ。
 怖かった。
 逃げ出したいのに、身体は凍りついたように動かせない。
 その間も優作さんの愛撫は淀みなく続く。オレは荒い息を隠せなくなった。かろうじて声だけは抑えていたが、もはやそれ以外は優作さんのなすがままだ。
 やがて、片方の手が滑るように背中から腰へ、腰から辿り、指先が奥深くへ伸ばされて――

「………ッ!」

 触れられたのは新一にだって許してない場所で。
 おんなのコみたいだと思ったけど、オレは物凄いショックを受けた。何かが喉元をせりあがってくる。


 新一。新一。新一。しんいち……ッ。






「う……」
「……快斗君?」
「ひ……う……ッ」
「まさか……泣いてるのかい?」
 止まらなかった。小さな子どもみたいにオレは泣き出してしまった。こめかみが熱くなって涙が途切れることなく零れてゆく。最後まで拘束されることのなかった両腕で顔を覆う。涙が袖を濡らした。

「おいおい、参ったな」
 本格的に泣き出してしまったオレを前に優作さんは慌てた。これまでどんな手を打っても動じず、飄々としていたのに、今度ばかりは本気で慌てている。オレは泣きながら言った。
「父さんに言いつけてやる……」
「いや、快斗君、それは待ってくれ!おじさんが悪かった!おじさんが悪かったから!」
「…ひくっ……やだ。言う。……ひくっ……ぜったい言う……」
「悪かったよ。悪ふざけが過ぎたね。もうしないから、どうか許しておくれ?」
 先ほどとは打って変わった弱腰。
 大袈裟なくらい、優作さんはオレの前でうろたえてみせる。
 いつもの優作さんに戻ったことを全身で感じて、オレは安心したんだろう、また新たな涙が出てきた。



 冷たい水で冷やしたタオルを目許に押し当てられた。
「泣き過ぎだよ」
 ベッドに腰かけたオレを見下ろし、優作さんが苦笑する。本当に心配してくれている顔だった。
「快斗君」
 ぎゅっと抱き締められ、遠慮なくそれに全体重を預ける。
 いくらオレが軽いっていったって成人男子なんだから、それなりに重いだろうに、優作さんはその広い胸で全部受け止めてくれた。大人の男の完成された胸だ。
 オレはぐいぐいとそこに顔を押しつけてくぐもった声で言う。
「先生、今日のは、やりすぎです」
「うん」
「でも、ありがとうございます」
「うん?」
「オレ、やっぱりちゃんと新一ともう一度向き合ってみます」
「……うん」
「逃げてちゃだめだってわかった。オレやっぱりあいつが好きです」

 自分で口にしたその台詞は、ごく自然に、すとんと自分の胸に落ちてきた。

 そうだ。あいつが好きだ。
 好きなんだ新一。
 こんなふうになってしまっても、やっぱり変わらず、お前のことが好きなんだよ。

 話をしなきゃ。
 オレ、まだ、あいつに嘘ついてたこと、謝ってもいない。


「快斗君は、いい子だね」

 頭上で、とてもやさしい声がした。

 今回のこれが優作さんなりの荒療治だったってことはもうわかってた。
 もちろん単に遊ばれただけって可能性も十分にあるけどね。

 だけどこのひと、ほんとやさしいんだ。
 強引にオレをベッドへと押し倒した手が、今は柔らかく背中を抱く。
 もう眠りなさい、って寝間着に着替えさせたオレをベッドへ横たえる仕種が新一を思わせた。

『快斗。もう眠れよ。』

 寝ろよ、じゃなくて眠れよって言う。親子なんだな。
 不意にものすごく新一に会いたくてたまらなくなった。
 いや、ずっと会いたくてたまらない。ただそのことに気づかないフリをしていただけ。

 あいつ、今どこでどうしてんだろ……。

 自宅には戻っていないという。あそこは優作さんの屋敷だ。阿笠博士のところだろうか。それともどこかの安ホテルに宿でもとっているんだろうか。こんな状況で、いつもの“親父のカード”は使わないだろう。自分の手持ちで泊まれるところなんて、いくら新一が依頼料をもらっていたとしてもバイト程度だろう、親の庇護を拒絶した高校生がまず金に困るのは目に見えている。近場の公園で野宿でもしてるんじゃないだろうか。

「新一のことが心配かい?」
 見透かされる。本当に怖いくらい勘のいい親子。かなわない。
 オレの髪を撫でる優作さん。慈しむような手つきだった。
「大丈夫だよ、アレは。雑草のように根強いからね」
「雑草ですか」
「今は踏まれて萎れていても、いつかまた立ち上がる。しつこくね。そういうふうに育てたつもりだよ」
「確かにアイツはしつこい」
「だろう?」
 オレは笑った。優作さんも笑う。


「やりすぎたことは内緒にしておいておくれよ?」
 優作さんが、らしくなく、バツの悪そうな顔をオレに向けてくる。
「君の父さんにも、私の息子にも、――ね?」
 そこに有希子さんは入らないんだ? 女神はよっぽど寛容なのか、それとも口にするのも恐ろしいのか。そのことについての追求はせず、オレは首を傾げてみせた。
「どうしようかな?」
 優作さんは芝居がかった仕種で腕組みをし、唸ってみせる。
「明日、ここのデザートバイキングで、どうだね?」
「いいですよ。手を打ちます」
 悪戯な笑みを返すと、優作さんがわしゃわしゃとオレの髪を撫でた。そのまま瞼に軽く指先が触れ、目を閉じさせられる。寝かしつけるのがうまいひとだ。
「おやすみ、快斗君」
 部屋の照明が落とされるのが目を閉じていてもわかった。
「おやすみなさい」


 オレはその晩、久方ぶりに安らかな眠りを得た。




 新一、新一。
 話をしよう。
 それでお前がだめだってんなら、オレも覚悟を決めるよ。いや、覚悟なんてとっくにできてんだ。
 ただその前に話をさせてくれ。
 情状酌量の余地なんてないことはわかってる。
 だけどお前と過ごしたあの時間、あの気持ちに、嘘はなかったってこと、どうかそれだけは――






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