喪失





 低く唸るようなクーラーの稼動音。
 カーテン越しに差し込む午後の陽射し。
 夏の昼下がりにしては柔らかな光が部屋を満たしていた。

 ベッドに横たわったまま、快斗は瞬きをひとつ。

 目覚めてすぐ、自室なのに人の気配がすることに気づく。
 視線をめぐらすと、快斗のベッドの横に背をもたせかけて本を読む新一の姿があった。

 子どもの頃とそっくり同じ情景。
 その手の中にあるのが文庫本か児童書かの違いだけで、その集中した真剣な面差しは今も昔も変わらない。
 新一の静かな横顔を見つめながら、快斗は自分の中のどこかがひどく安堵を覚えるのを感じていた。
 あまりの安らかさに泣き出したくなるような、圧倒的にただ守られているという感覚。

 起き上がろうとして身動きした衣擦れの音で新一が気づいた。

「目、覚めたか」

 新一が本を閉じて立ち上がる。
 快斗の額に載せられていた濡れタオルを取って、水分を含んで肌に貼りついた前髪を指先でかきわける。

「じっとしてろよ?」

 そう言って顔を寄せ、額と額を合わせて熱を診る癖も変わっていない。何もかもが子どもの頃と同じだった。
 至近距離に迫った新一の瞳から逃れるように、快斗は思わず目を伏せた。
 物心ついた時分から探偵を名乗っている新一。
 その瞳に何もかも見透かされそうだ。

「下がったみてえだな」

 新一はそう呟き、ほっと息をついた。 
 身を起こそうとしたら「馬鹿、まだ寝てろ」とすぐさま声をかけられ、遮られた。
 快斗は諦めてベッドへと沈み込む。

『かいと』
「快斗」

 幼く高い声と、大人びた低い声が重なるような、幻聴。

『きぶんは?』
「気分は?」

 快斗の母が決まってそう尋ねるのを、幼い新一も見様見真似で覚えてしまったらしい。
 それが未だ抜けない口癖となって残っているのか。

 新一の顔を見上げて快斗は微笑んでみせた。
「――ん。もう平気」
「無理すんなよ?」
 溜め息とともに吐き出される言葉。
 新一が呆れたようなフリをするときは本気で心配してくれているときだ。
「うん」
「クーラー、寒くねえか?」
「うん」
「喉は?」
「少し渇いた」
「待ってろ」

 そう言い置いて、新一がドアの向こうに消える。
 その光景を目にした途端、襲ってきた不安。
 快斗は自嘲の笑みを浮かべる。過去と現在の状況の符合に引きずられ、まるで自分まで小さな子どもに戻ってしまったかのようだ。

 ――弱くなってんなオレ。

 弱ったところに、新一の存在だ。
 理性でどれほど押し留めようとしても、縋りたいという気持ちが溢れ出しそうになる。
 快斗は腕を持ち上げて瞼を覆い、唇を噛んだ。




「ほらよ」
 冷えたスポーツ飲料を移したグラスが差し出される。礼を言って受け取った。
「こまめにちゃんと水分摂れよ。熱が下がったからって油断すんなよ?」
 新一に見守られる前で、すべて飲み干す。発熱のため水分を失った身体にそれは染み渡るようだった。グラスを返して促されるままに、またベッドへ横になる。
「なあ。なんで新一、ここにいるんだ? いつのまに来たの」
「ご挨拶だな。――おばさんに父さんの新刊届けに来たんだよ。そしたらオメーが熱出して寝てるっていうからさ」
 言いながら、快斗の身体からずれ落ちたタオルケットを直してくれる。
「おばさん、これから仕事だっていうし。代わりにこの俺が看病引き受けてやったってわけだ。感謝しろよ?」
 口調とは裏腹に、その手つきはやさしい。
「それにしても、お前ホント、夏にばっかり熱出すよな昔から」
「……何が言いてえんだよ」
「別に」
「あれだろ? 夏風邪はなんとやらって言いてーんだろ?」
「ご明察。自覚があるとはたいしたもんだ」
「うるせ」
 こうして軽口をかわすのも、快斗の具合がよくなってきたのを見越した上でのことだ。
 そんな新一の、幾つになっても変わらぬやさしさや心遣いに触れるとき、快斗の心は痛みを覚える。自分はすでにそれらを享受できるような存在ではなくなっているというのに――

「なあ、快斗」
 不意に新一が真剣な目をして名前を呼んだ。
「ん?」
「何かあったか?」
 新一の深い眼差しが快斗を捉える。
 それから少しだけ躊躇うような素振りを見せたあと。
「お前が夏に体調崩すようになったのって、あん時からだろ。……だから、また……」


 そう。あれも夏だった。


 九つの頃。快斗の父がショーに赴いた国で政変が起こった。空港は封鎖され、かの国に在住する邦人の情報は一時まったく入らなくなった。もちろん旅行者も例外ではなく――約束の日に父は戻ってこなかった。
 まだ幼かった快斗や新一には何が起きているのか正しく理解はできなかったが、それでも何かたいへんなことが起こっているということは子ども心にも親たちのようすから感じ取っていた。
 記憶に残るのは、鳴り響く電話、緊迫した空気。出入りする大人たちの深刻な表情。
 極めつけはテレビで流れた武力衝突の映像だった。
 普段であれば大人たちも十分に気をつけていただろう。けれど、あの時はその大人たちにも余裕がなかったのだ。唯一、子どもたちの異変に気づいた優作が飛んできて素早くチャンネルを変えたが、それでも遅かった。快斗の目に、それは強く焼き付いてしまった。
 その夜、快斗は過度の緊張とストレスから高熱を発し、緊急入院を余儀なくされる。
 そして予定より遅れること十数日、父の無事帰国。
 病室を訪れた父の、その胸に飛び込んで快斗は安堵に泣きじゃくった。
 不安に揺れ、恐怖に押しつぶされそうだった夏。
 快斗はあのとき初めて失うことの意味を知り、その足音に怯えた。

 七年後、本当に失ってしまうことになるとはさすがに思ってもみなかったが――



「快斗」
「べつに何も」

 笑顔を見せる。

「べつに何もないよ。新一」

 新一の表情が曇った。
 本当に新一の前では自慢の演技力も効果は五割減だ。それでも快斗は涼しい顔をし続ける。父のように完璧には程遠くとも、一度装った仮面を外すわけにはいかなかった。
 新一は怒ったような顔をしていたが、それでもやがて諦めたふうに瞼を一度伏せ、ぼそりと小声で呟いた。
「意地っ張り」
 快斗は聞こえないフリをする。
「なんかあったら、頼れよ?」
 目を見ないまま、くしゃりと頭を撫でられた。


 やさしい新一。
 まっすぐな新一。


 彼の前で秘密を抱えることがこんなにつらいことだなんて思いもしなかった。甘く見ていた。自分にはまるで覚悟が足りなかったのだ。
 新一の掌の下、歪みそうになる顔を懸命に堪える。
 これまで新一の前では誰よりも自分自身でいられた。
 ことさらに能力を抑えたり、立居振舞に気を遣わなくとも、新一は快斗という人間をありのまま受け入れてくれる。
 でもこれからは――誰よりもまずいちばんに欺かねばならない。
 新一が決して認めず受け入れないだろう領域に、自分は手を染めたのだから。

 それでもこの道しか選べない頑なな自身の心を知っている。
 誰を騙しても誰を悲しませても――身勝手な我侭を消せない、子どものように残酷な自分自身を快斗はよく知っている。



 キッドの名は、捨てられない。



 一年前に父を亡くしたばかりの悲しみを、真相を知ったときの激しい憤りを、こんな形でぶつける自分は間違っているのかもしれない。それでも――


 新一、ごめん。


 子どもの頃だってそうだった。
 一見、新一のペースで進んでいるように見える物事も、最後の最後で我を通すのは決まって快斗のほうだった。
 仕方ねえなと新一が折れる。
 快斗はそんな新一に甘える。
 まるで、しっかり者の兄と無邪気な弟だった。
 一人っ子同士の二人が出会って過ごすうち、誰に言われるでもなく、自然に生まれた役割分担だ。
 まるで双子の兄弟のように、言葉にせずとも、お互いがお互いの考えや望みをわかりあえた。


 だけど、もう自分たちは、あの頃の子どもじゃない。


 いつかすべてが明るみに出る日はやってくるだろう。
 自分は父のように偉大なマジシャンではなく、未だ一介の高校生に過ぎなかったし、新一は謎を愉快がる作家ではもちろんなく、しかし高校生でいながら、すでに立派な探偵だった。


 すべての真実を彼に知られてしまったとき、今度こそ自分は何もかも失ってしまうのだろう、間違いなく。
 過去のやさしい想い出も。
 唯一残された拠りどころも。

「快斗、眠ったのか?」

 頭上に降る柔らかな声に、快斗はただ目を伏せ続けた。
 何かひとつでも声に出して返そうとすれば、代わりに嗚咽が洩れてしまいそうだったからだ。
 敏い新一はそれだけで何か気づく。
 いや、すでにもう気づきかけている。
 それは確実に喪失へと繋がるものだ。

 快斗は今また幼い頃のように、その足音に怯え、震えていた。






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