夏祭り





「新一も浴衣着りゃよかったのに」
「持ってねえよ、ンなモン」
「なんなら今ここでオレが着替えさせてやろっか」
 にやりと含みのある笑みを浮かべた快斗に新一は即答を返す。
「お断りだ」
 でも身をもって体験すればキッドの早着替えの仕掛けが何かひとつくらいはわかったかもしれない。

(別に知りたかねーけど)

 思ったそばから矛盾しているのに気づいていた。
 知りたい。けれど、こういう時間の中で知りたくはない。新一の意地のようなものは互いの距離が急速に縮まったのに比例して強固になるばかりだ。



 祭りならトーゼン浴衣着なきゃだろ。

 今から一時間ほど前、快斗は工藤邸のリビングでそれはそれは嬉しそうに自宅から持参した浴衣を広げてみせたのだった。
 あれは女子中高生が浴衣を着たがるのと同じノリだと、新一は思う。

(そもそもこいつはコスプレ大好きなんだった)

 快斗は基本的に物事を面倒がるということがない。
 面倒がるどころか面白がって積極的に参加する。自分も周りも盛り上げずにはいられないのだ。四季折々、和洋問わず、多彩な行事に事欠かない日本に生まれたことは快斗にとって幸福だったといえよう。新一は大袈裟にそんなことを考える。対する自分はやや不幸かもしれない。
 不幸は言い過ぎにしても面倒なものは面倒なのだ。
 祭りの夜なぞ人が多いばかりで、花火や夜店に心が弾んだ子どもの頃ならともかく、今はそれらもさほど魅力ではない。快斗の熱烈な誘いがなければ、新一はこうして外に出てくることすらしなかっただろう。
 ただ予想していた暑さはそれほどでもなかった。

「けっこう夜は涼しいもんなんだな」
「今夜は風があるかんな」

 少し先をゆく快斗の鳴らす下駄の音がカランコロンと耳に懐かしい響きを落とす。
 時折、擦れ違う子どもの手首にぶらさがったビニール袋の金魚から、快斗がのけぞるようにして避けようとするのを笑って見やる。夜風が心地いい。エアコンのきいた部屋で快斗と二人だらだら過ごすのも悪くないが、こうして夏の夜の空気を肌で味わいながら並んで歩くのもまた悪くない。
 金魚と擦れ違いさえしなければ、快斗の背筋はしゃっきり伸びて、浴衣の着こなしは文句のつけようがなかった。先ほどから暗がりなのにも関わらず、夜店の淡い光に照らされた快斗の姿を見て振り返る目ざとい女子たちの存在にも新一は気づいていた。
 均整の取れた身体と整った容貌が人目を引くのは言わずもがなだが、端正な居住まいは昨日今日付け焼き刃で身につけたものではなく、快斗の内側から自然に滲み出てくるものだ。
 新一は快斗の斜め後ろという位置を存分に利用して得意の観察眼で下から上までじっくりと見つめた。
 歩くのに合わせて裾から見え隠れするくるぶし、ふくらはぎ、身体に沿った布地のせいで太腿から腰のラインがよくわかる。何かの拍子に夜空を指差した快斗の腕が宵闇に白く映えた。襟が抜かれ、露わになったうなじは日中Tシャツから覗くそれよりも涼しげだ。そして色がある。

(コスプレ、恐るべしだな)

 初めて見た浴衣姿は、普段の制服姿や私服姿よりもずっと大人びて見えた。
 夜風に吹かれながら歩く、それだけの動作で背後の新一の目をすっかり釘付けにする。

「まずはたこ焼きだろ。焼きもろこしにフランクフルトに……りんご飴は外せねーし、わた飴も……あ!カキ氷のこと忘れてた。いっけね」

(口を開きゃまだまだガキなんだけどよ)

「そんな一度に持てねーだろうが」
 すっかり保護者の気分で口にしたら、
「そのために新ちゃんがいるんじゃない」
 どこから出したのかと思える、声真似ではない快斗自身の裏声で返された。
 それから普通の声音に戻って、快斗は当たり前のように言う。
「こういう祭りのときってのはさー、両手に持って、なおかつ残りを彼氏に預けるのがセオリーじゃん」
 彼氏の前でそこまで食い気に走る彼女もそういないと思うが、快斗がどさくさに紛れてほのかに纏わせた甘い空気が新一を黙らせた。
 下駄はカランコロンとのんびりした音を変わらず奏でている。
「彼氏ね」
「そうそう」
 快斗が声もなく口の端で笑う。
 唐突に――その手首を掴んでこちらに引き寄せてキスしたいという衝動が新一の中を駆け抜けていった。

「だめよ、新ちゃん。浴衣が着崩れしちゃう」

 前を向いたまま、快斗は言った。
 新一は思わず横向く。

(なんでわかんだよ。こえーな)

 そんなにあからさまだっただろうか。もう今さら本人に対して隠す気はさらさらないが、あんまりがっついていると思われるのも遠慮したかった。
 ただ慌てて取り繕うのもまたみっともなく思えて、新一は開き直ったふうを装ってヤケクソみたいに言い返した。
「よく言うぜ。オメーならちゃっちゃっと直せんだろ」
「まあね」
 今度は振り向いて新一を見て笑った。
 実際、浴衣だろうが振袖だろうが快斗に問題はないはずだった。着付けの腕はプロ並と言って間違いない。
「全裸にされても着方わかんなくて困って泣いちゃう、なんてことはオレにはないよ。どうする?」
「……しねーよ」

(だいたい最初からできるわけねーだろ公道なんだぜここは。第一あっさり全裸とか言うな)

「もっとも?和服って便利にできてるから工夫次第でどうとでも……」
「しねーっつってんだろ。いいからもう黙れ、お前。煽んな」
 快斗の言葉を遮った新一は歩調を速めた。スニーカーは音もなく、快斗を追い越す。
 視界から艶かしい色香を放っていた肌が消えて、新一は少しだけ安堵する。と同時に、修行が足りん!と坊さんに肩を叩かれ一喝されたような気分を味わっていた。
 快斗はそんな新一の内心を知ってか知らずか、やけに楽しそうに口にする。
「やっぱり今日オレ浴衣着て来てよかったー」
「なんで」
「新一君がソノ気になって、なおかつ理性的に紳士的に振る舞ってくれるのをこうして見れたから」
「そーかよ……」
 新一は脱力した。
 もうすでに十分がっついていると思われているわけだ。
 ならば認識に違わず行動してやろうじゃねえか、新一は即座に切り替える。

「よし。こうなったら、まずはとことんお前に夏祭りを楽しませてやる」
「わ、何」
 突然立ち止まった新一の背に快斗がぶつかる。
 新一は快斗に身体ごと向き直った。
「たこ焼きに焼きもろこし、フランクフルト、りんご飴、わた飴、カキ氷だったな!」
 目に付いたものから手当たり次第与えていこう。
 新一の剣幕に快斗はぱちくりと目を瞬かせたが、
「まだあんぜ。輪投げに射的にスマートボール、ヨーヨー釣りと型抜きもな」
「遊戯系もかよ!」
「食い気ばっかじゃつまんないだろ」
 当然のように言って、快斗は浴衣の袖を腕まくりする。かれこれ五年ぶりだぜ腕が鳴るな〜、なんて嬉しそうな笑顔で。
「お前の腕前じゃ何やっても楽勝だろ」
「そうそう。江古田の黒羽といえば通ったあとにはペンペン草の一本も生えないとテキ屋の兄ちゃんたちに恐れられ……」
「いつしか江古田の祭りの遊戯系夜店は金魚すくい一辺倒になったわけだな」
「そうなんだよ、ひでえよなー。いたいけな子どもの楽しみを奪うなっつの」
 酷いのはどっちだ、と新一は内心で混ぜ返す。
 まったく快斗の自然体ぶりには呆れるばかりだ。その稀有な能力を隠そうともしない。立場も状況も違うとはいえ、つい新一は己が小学生の姿だった頃の自らの才の隠蔽に払った涙ぐましい努力に思いを馳せる。

「つーかさ新一、『まずは』って何?」
「ん?」
「さっき言ったよな? 『まずは楽しませてやる』って」
「ああ、気にすんな」

(せっかく浴衣まで着て煽ってくださったんだ、応えねーわけにはいかねーよな)

 幸い、快斗には「早く帰って水槽に入れてあげなきゃ」という厄介なアイテムを祭りから持ち帰る心配もない。
 浴衣の利便性については先ほど本人自ら示唆してくれた。

(ま、そうは言っても庭先くらいが限度だとは思うけど)

 新一の脳裏に夏の濃い緑に覆われた鬱蒼とした自邸の前庭の風景が甦った。
 門扉から少し離れたところに幹の太い樹木がある。
 あれに押しつけて浴衣の上も下もはだけて――着乱れた姿は想像の上でも十分に煽情的だ。

「何をそんな熱心に考えてるのかなー、探偵君は」
「別に」
「なんかまたよからぬことだろ……」
 睨まれたがシラを切りとおしていると、やがて快斗は溜め息ひとつ。
 これで追求を諦めてしまうのが快斗だ。
 こいつはやっぱり探偵には向かねえよな、と新一は思う。

「あ、新一、アレ買って」
 腕を引かれて、なんだと振り向けば快斗が指差したのはプラスチックでできた色とりどりのお面だ。
「仮面ヤイバーがいいな」
「ンなもん買ってどうすんだよ」
「誰かさんがソノ気になったら被るんですー」
「……あっそ」
 新一はジーンズのポケットから小銭入れを取り出して、ご所望の品を買い与えてやった。

(……前言撤回。たいした観察眼と読心術だぜ)





 軽い音を立ててキャラメルが倒れる。狙うのはずっと菓子類ばかりだ。その気になれば難度の高いミニボトルでも撃ち落としてしまえるくせに興味のないものには手を出さない。子どもそのものだ。獲物を狙う姿勢はこんなところまで一貫していた。
 それにしても射的用の玩具の銃でさえ、彼が構えるとサマになる。ゲームに参加していない新一がこっそりその姿に見惚れていると、快斗がぼそりと口にした。 
「……外はやだかんな」
「なんで」
 またキャラメル。あれらの戦利品も自分が持たされる羽目になるんだろうか。すでに輪投げのそれが新一の左手を塞いでいた。
「蚊に食われんだろ」
「中ならいいのか」
 快斗が狙いを定める。今度はドロップ缶へ。あれは重さがある。難しいはずだ。
「うん」
 ドロップ缶は倒れなかった。重量のせいではない。そもそも当たらなかった。快斗が弾を外したのだ。理由は実にわかりやすい。快斗の耳はうっすら赤く染まっていた。

「帰んぞ」



 快斗の手を引いて新一は歩く。
 カラコロと行きよりも急いた調子で下駄が必死についてくる。
「オレまだヨーヨー釣りやってない」
「来年やりゃあいいだろ。これ以上、米花の夜店を荒らして回るな」
「もうすぐ花火上がると思うんだけど」
「うちの屋上からも見えんぜ」
「……屋上なんて出てるヒマあんの」
「なんなら屋上がいいか。蚊はいねえぞ。ん?」
 新一は歩みの速度を弱めて、すいと快斗の顎に手を伸ばした。
 今から祭りに向かう人はほとんどいない。花火を見ようという客はもっと早い時間に場所取りを済ませている。また一方で、まさに花火が始まらんとする今、帰ろうとする人もいない。畢竟、帰り道に人通りはなかった。
 しかし快斗は見事な素早さで帯の後ろに差し込んでいた面を取って、あっという間にそれを被ってみせた。
「外はやだっつった」
「……わあったよ」
 面の上から音を立てて口付けると、新一はまた快斗の手を繋いだまま歩き始めた。

「………ッ、し、しんじらんねえ……」
「ああ?」
「なんつー恥ずかしいことすんだ、お前!」
  肩口に流し見ると、快斗は面を取っていた。俯いた顔は夜目にも真っ赤である。
「なあ快斗、けっこう祭りも楽しいもんだな」
「……新一はほとんど参加してなかったじゃん」
「いやいや」

(いろんなお前が見られて楽しかったぜ)

 そしてこれからも見せてもらうのだ。
 悪くない。まったくもって悪くない。
 背後で上がり始めた花火の音を耳に、新一は上機嫌で快斗を連れて帰宅の途についたのだった。






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