桃と、夏の午後のひかり





「ずいぶんと素直になったじゃねえか」
「なあ新一。なんで桃に話しかけてんの」
 キッチンに足を踏み入れた快斗は胡乱な者を見る目つきで新一を一瞥し、言った。
 シンクに向かって立っている新一の右手には果物ナイフ、左手には大振りの桃がひとつある。桃はすでに半分くらい皮を剥かれて黄色い果肉をあらわにしている。
 快斗は工藤家の大型冷蔵庫から2リットル入りミネラルウォーターのペットボトルを取り出してグラスに注いだ。勝手知ったる他人の家だ。いつもならシンクの前に立つのも快斗と決まっている。だが今その場所を占有してるのは本来の家主である新一だった。
「オメーに剥いてやってんだよ。食うだろ?」
「そりゃどうも。もちろん食うよ」
 新一の回答は快斗の質問の答えにはまるでなっていなかったが、ここはあえて流すべきだと快斗は遅ればせながら賢明な判断をとった。新一のいつにも増して怪しいようすに思わず声をかけてしまったが、そもそもの質問が余計なことだったと気づいたからだ。
「こいつがさ、まるでオメーみたいなんだよな」
「………」
 質問は有効中だった。新一が聞き逃すなんてことはやはり滅多にないのだ。
 新一はこいつ――桃を手の中で転がし、皮を剥いてゆく。
 嫌な予感がして快斗は知らず眉を顰めた。
 新一はそんな快斗の表情には気づいていない。目線は変わらずに剥きかけの桃にある。
「これ、山梨の知人が送ってくれたんだけどよ」
 山梨に知人?誰だそりゃと思うが、探偵としての新一の顔の広さは知っている。
 そんなことより、なぜそれが先ほどの台詞と繋がるのか、首を傾げていると、
「ここにきて日が浅いうちはまだ硬くてさ、初々しいってーか、慣れてねえんだなーまだ早かったかなと思ったんだけど、それでも強引に剥いて抱けば……じゃねえ、食えば中味はしっかり甘くてさ、こりゃ先が楽しみだなと、もう少し熟れるのを待っててやっかな、でもこの物慣れねえ風情もこれはこれでたまんねえんだよな、とか」

(オレなんでこんな男が好きなんだろ)

 手に持ったままだったペットボトルを冷蔵庫へ戻さず、暑さでイカれたとしか思えない男の頭に投げつけてやりたくなる衝動を快斗は必死にこらえる。中身の残り少ないペットボトルがベコッと音を立てて歪んだ。
「そのうち日を追うごとに柔らかくなってきてよ、今じゃほら」
 新一がナイフを置いて快斗にもよく見えるように桃をやや掲げる。
「見ろよ、指先だけでもこうスルスルと」
 親指の腹を滑らせるようにすると新一の言葉どおり、皮は簡単に剥き取られてゆく。よく熟れている証拠だ。すっかり剥き出しにされた桃から果汁が滴り落ちる。手首に伝ったそれを新一が舌を伸ばして舐め取った。そのさまを快斗は思わず注視してしまって、はっと気づく。が、遅かった。
「甘えな」
 低い声は一瞬にして夜の気配を纏う。
「今が食べごろってやつだな」
 ここで初めて新一は快斗に向かって意味深な視線を投げかけてきた。
 果汁に濡れた薄い唇、それが何を連想させるか、新一はわかっている。計算ずくだ。
 先ほどの新一の舌先が脳裏をちらつく。
「お前に似てる」
「――人つかまえてヘンな例えすんじゃねえよ」
 軽蔑の視線を送ってやって、冷蔵庫の扉を開けるのに乗じて目を逸らした。それでも新一が笑う気配は読み取れる。
「妬いたか? 桃に」
「何がどうなったらそうなるんだよ!」
 力任せに扉を閉めて快斗は怒鳴った。自宅の冷蔵庫でこれをやったら間違いなく母の小言が飛んでくるに違いない。
「壊れるぞ冷蔵庫」
「てめえに言われたくねえっつの!」
 今度は左手に持ったグラスを投げつけてやりたくなった。せめて中身の水くらいならいいかもしれない。けれど、そもそもこれを取りにキッチンにやってきたんであって、この馬鹿男に浴びせてしまえば、また最初からやり直しだ。快斗はまたしてもこらえた。
 そんな快斗の内心を知ってか知らずか、新一がふと夜の気配を解いて。
「切ったら持ってってやるからリビングで待ってな」
 そう口にして綺麗に微笑むので快斗はそれ以上何も言えなくなってしまうのだ。
 どこのエロ親父かと思わせる台詞を吐きながら本人の涼やかな居住まいは少しも損なわれることがない。快斗は己がこのギャップにやられているのだという自覚はあった。



「お待たせ」
 まるで常の自分が口にするような言葉とともに新一がドアを開けてリビングへと入ってきた。片手にはトレイ。給仕する新一の姿というのは珍しい。初めて見るかもしれない。
 桃は適当なサイズにカットされ、ガラスの器に一人分ずつ盛られている。ご丁寧に果物用のフォークまで添えられていた。
 新一にしては随分と気が利いている。利きすぎて怖いくらいだ。
「……どしたの?」
 ソファに座ったまま器を受け取って聞いてみた。
「別に?」
 訝しげな快斗の視線などものともせず、快斗の隣りに座った新一は飄々とした風で自ら切った桃を口にしている。
 なんだか落ち着かない気分のまま、快斗も差し出された果実へと手をつけた。
「ずいぶん黄色いな。黄桃ってやつ?」
 まるでマンゴーのような色味だ。それは快斗に子どもの頃に食べた缶詰のシロップ漬けの桃を思い出させた。
「ああ、わりと新しい品種らしいぜ」
 新一は早いペースで桃を口に入れながら答えた。
「ちなみに数週前にも送ってきてくれたんだけど、これはあっちに比べるとあっさりしてっかな」
「あ、こないだ食った白いやつ? あれもいただきものだったのか」
 道理で美味いと思った、快斗は納得する。
 新一の家には中元、歳暮、それ以外の時期にもよく贈り物が届いた。父母の交友関係の広さに加えて新一の探偵業のせいだろう。贈り物には高級食材が多く、アルコールと魚介類以外では快斗も度々相伴に預かっている。
「こっちの黄色いのがオメーなら、あの白いのはキッドだな」
 まだ話は繋がっていたのかと快斗は呆れた。
「白いと何でもそれかよ。桃の熟れ具合なんてどれも同じだろうが」
「いや? あっちは最初から甘かったぜ。――外見は気取ってて寄せつけない感じなんだけどよ、一枚剥ぎ取れば後はなし崩し」
 最後は揶揄を含んだ口調に、快斗は不覚にもカッと赤くなった。
 心当たりがあったからだ。というより、間違いなく新一はあのときのことを指している。白い衣装を纏っているときは往々にして神経が昂ぶっているのだ。そこへ新一の強引な所業を受ければなし崩しにだってなる……。
 細部まで思い出しかけて慌てて快斗は回想を頭から振り払った。
 そこで、ふと隣りの新一に目をやると、先程まであれほど淀みなく動いていた手が止まっているのに気づいた。器にはまだ少し桃が残っている。
「あれ、もう喰わねえの?」
「ああ。後はオメーにやるよ」
「ふーん。じゃ、遠慮なくもらうけど」
 器ごと引き取って残りの一切れを口に放り込んだ。と、同時に向こうで新一が薄く笑っているのが目に入る。嫌な予感がする。
「おいまさか」
「俺は桃よりお前が喰いた」
「やっぱりソレかよ!」
 牽制しようと振り上げた手は一瞬早く新一に掴み取られた。そのまま手首ごと快斗を引き寄せ、新一が顔を近づけてくる。もう新一の秀麗な顔が眼前だ。快斗が耐えかねて瞼を伏せると、後には深い口づけが待っていた。
 散々、快斗の口内を荒らしてから、ようやく唇を離し、新一は笑って言った。
「お前、桃の味がする」
「……ったりめえだろ。今の今まで食ってたんだから」
 手首で口許を拭って何でもないことのように言い捨てた。それでも心音が早くなるのはどうしようもない。
「さっき食ってたのより甘え」
「同じだろ」
「この分だと肌まで甘そうだな」
「なわけねーだろ」
 新一の視線がそれこそ舐めるように快斗の輪郭を辿ってゆく。
「確かめてやるよ」
 今度は首筋に噛み付かれるようにキスされ、同時に着ていたシャツの前をはだけられた。遠慮のない新一の重みに耐えきれず、快斗はずるずるとソファへ背中から倒れ込んだ。
 『後はなし崩し』――先程の新一の台詞が快斗の中で再生される。
「おい、いい加減にしろよ……ッ」
 新一の頭を引き剥がそうと抗えば、逆に腕を封じられ、意趣返しのように胸の敏感な部分を口に含まれ甘噛みされた。不意打ちに快斗は身体を竦ませる。
 これは戯れでは済まないと快斗は悟った。新一は本気だ。
「な、あ……ここじゃやだって……せめてベッドで……」
 妥協の道を探るべく快斗は幾分語気を弱めて訴えた。が――
「二階は暑いだろ。お前がエアコン切っちまったんだから」
 あっさり一蹴される。確かに二階のエアコンを無駄だと停止させたのは自分だったが、まさか昼日中から寝室に篭るような事態になるなんて予想もつかないではないか。
 工藤邸の広大な庭を臨むリビングは面した壁がすべて窓、ガラス張りだ。深い庭のためプライバシーが侵される心配は皆無だが、だからといって平気ではいられない。陽光が降り注ぐここはあまりにも明る過ぎていたたまれない。
「な…ッんで夜まで待てねえんだよ…ッ」
「やりたい盛りってことじゃねえの?」
「他人事みたく言うな、よな……ッ」
 語尾が掠れた。新一が性急に、かつ容赦なく快斗のものを掴み取ったからだ。
 直後に愛撫を加えられる。空いている左手は快斗の胸をせわしなく弄り始めた。
「…ンとに……ッ……ここですん、の……」
「もう始めちまったしな」
 革張りのソファでは何に縋ることもできない。いくら工藤家のソファが大きく、余裕があったとしても所詮は腰掛けるためのサイズだ。限られたスペースでは逃げをうつことはおろか身じろぎもできない。
「最近……お前、こんなのばっかじゃ、ねーか……」
「こんなのって?」
 震える快斗の鳩尾に舌を這わせながら新一が聞き返してくる。
「玄関、とか風呂場、とか……」
 言葉にするとともに甦った記憶の淫らさに快斗は目眩を覚える。新一は持ち前の旺盛な好奇心をこんな方面でもきっちり発揮して、回を重ねるごとに行為はエスカレートするばかりだ。もっとも新一に言わせればまだまだ常識の範疇らしいが。
 快斗とて知らないわけではないのだ。
 だが知識と実践は別物である。
「そのたびにお前は拒絶してみせるよな」
 当たり前だと返そうとしたが、新一の指先が奥へと伸びてきたことの衝撃に声は封じられてしまった。
 固くなった身体を宥めるためか、一度新一が手を止めて快斗をゆるく抱く。
 頬に寄せられた唇が目許からこめかみを順に辿ってゆく優しげな仕種に、快斗がほっとして瞼を閉じたところへ新一の声。
「屋内なだけマシだと思えよ」
 耳元で囁かれた台詞の内容にぎょっとする。
「どういう意味…ッ」
 目を開けて身体を起こそうとしたが、新一に阻まれてしまう。

「脚、開け」

 新一がこうして即物的な命令口調になれば、いよいよ制止は難しいことを快斗は知っている。
 おとなしく従って、それでも葛藤はそのままに表情から隠せない。
「もっとだ」
 こんな狭い場所で無理だと反駁しようとすれば、その前に足首を掴まれ、強引に割り広げられた。
 内腿を新一の掌で押さえつけられる。
 あとはただひたすら快斗が羞恥に耐える時間がやってくる。
 馴らすために後ろを指先で弄られるのが快斗は苦手だった。新一が快斗の反応をつぶさに観察しているのがわかるからだ。嫌でも耳に入る水音と、時折新一がいやらしい言葉をかけてくるのも苦手だった。

「いつまで経っても慣れねーよな、お前」

(慣れてたまるか、こんなこと)

 快斗は顔をそむけて唇を噛んだ。
「入れるぞ」
 いいかともまだかとも確認しない新一のそれは、ただの宣言だ。
「……ッ…」
 身体が震える。出会い、身体を重ねるようになって、すでにもう何度目かもわからないのに、自分の身の内への侵食を許すこの瞬間は快斗の心と身体に形容し難い感覚をもたらす。
「さっきの桃は我ながら絶妙の例えだったよな」
「は……ッな、に……?」
「外側だけじゃなくて中もまだ固い」
 にやりと笑んだ顔で見下ろされて快斗は一瞬絶句し、ぎゅっと目を瞑った。
「…こンの…変態…ッ!」
「その変態に弄られて感じてんのは誰だよ」
「………ッ」
「なんて言葉にもいちいち反応すんだもんな、お前」
 新一が苦笑まじりの声で言った。目を伏せている快斗にはわからないが、きっと声音のとおりの笑みを浮かべているに違いなかった。
「そういう反応が相手をよろこばせるんだぜ? わかっだろ?」
 前髪を梳き上げられる。苦悶と羞恥の表情を晒すことになって、快斗はさらに強く瞼を閉じた。それでも感じる新一の視線に殺されそうだと思う。新一はいつだってこうして快斗のすべてを暴き立てる。

「快斗」

 呼ぶ声はひどく優しげで恐ろしく甘い。
 ――新一に堕とされる。
 快斗の身体が無防備に開くのを見計らったように新一が身体を進めてくる。もう快斗に逃げ場はない。奥の奥まで新一でいっぱいにされて力なく喘ぐばかりだ。
 それなのに新一は行為のみに集中しない。
「快斗、お前さ」
 繋がっていることを忘れているかのような自然な口振り。
「俺にこうされんの、いやか?」
 なんて時になんてことを口にするのだろう。
 それでも答えを待っている気配を感じて、快斗はそろそろと瞼を持ち上げる。
 新一は不安げなんて殊勝な顔をしているわけでもなく、快斗を揶揄するような勝ち誇った顔をしているわけでもなかった。
 真摯に快斗を見つめる瞳は、意図もなく快斗の真意をただ問うている。

「……や、じゃねえ…よ……」

 快斗は目を眇め、新一を見つめる。
「ただ……慣れねえ、だけ……ッ……」
「そっか」
 ふっと新一が笑む。少し幼くなった表情に、快斗の身体と心の奥底が疼いた。結局――
「…ンな、ことより、はやく……動け、って……いつまで、こうしてるつも」
「そうだな」
 動きやすい体勢を取るために脚を肩に担ぎ上げられる。結合が深くなる。真上から新一に見下ろされる形だ。羞恥はずっと消えない。きっと慣れることなんてない。でも結局、求めずにはいられないのも自分自身だ。
「ッ……しんい…ち……」
 名前を呼べば応じるようにキスが与えられた。
 繋がったままで交わす口付けは羞恥に囚われるばかりの快斗の気持ちを少し緩めてくれる。
「いつになったら、慣れるんだろな……」
 ぽつりと独り言のように新一がそう漏らした。
 その意味を快斗が捉えるよりも早く、新一に中を強く抉られて快斗は短い悲鳴を上げる。新一の満足そうな瞳の色がただ印象に残った。



「慣れねえってお前は言うけど」
 ソファへぐったりと身体を預けたまま、快斗は新一の声を聞いた。
 力の入らない四肢も乱れた着衣もすべてそのまま、明るい陽差しに晒されている。
 だからリビングなんかでやりたくなかったのに――熱が去れば、居た堪れない気持ちは強くなるばかりだ。
 そんな中で新一は淡々と語る。
「俺もまだ全然慣れねえよ」
 どの口が言うのかと快斗は思った。
 不慣れなのは最初のほんのわずかな間だけ、戸惑う快斗を置いてどんどん先に進んでいる新一の台詞ではない。
 快斗の内心を読み取ったか、新一が声もなく笑った。

「慣れない、お前に」

 髪を撫でられる。慈しむような仕種。

「慣れないんだ。すぐに煽られて理性が飛んじまう」

 そう言って柔らかな笑みを浮かべた新一の顔を目の当たりにして、快斗は負担の残る身体に構わず衝動のままに反転し、思わずソファに突っ伏した。
「だからその顔は反則だっての……」
「慣れろよ」
 新一の笑う声が頭上でする。
 すべてお見通しなんだな、と快斗は顔を上げられないまま思った。






back