三上は高校時代と少し変わった。
 なんというか――柔らかくなったのだ、態度や表情が。
 いつも張り詰めていたあのピリピリとした雰囲気が和らいで、余裕と落ち着きが備わった。端的に言うと大人びた。
 そして何より違うのが、高校時代より、もっとずっと楽しそうにサッカーの話をするようになったことだ。
 常勝を強いられ、レギュラーポジションの維持に不断の努力を要した武蔵森時代。
 確かにその頃に培われた有形無形のものは自分たちの財産になってはいるが――

 自分で考えて自分で動く。

 それまで組織プレイ重視で、監督が望むままのシステマティックな動きを課せられてきた三上にとって、大学サッカーでのそれは新たな発見と感動だったようだ。

 ――ああ、こんな先輩といっしょにサッカーやってみたかったな。

 胸に浮かんだ、ほろ苦いような想い。
 自分の進んだ道は間違っていなかったと思うし、毎日が刺激に満ちてそれはそれでとても充実してはいるけれど。
 過去を懐かしむような感傷に近い想いが、今も時々藤代の胸に去来する。



 藤代が練習から戻ると、三上は炬燵の上に白い紙を広げて何やら書きこんでいた。
 幾つかの線と丸。戦術の説明などに使用される、藤代にもお馴染みのフォーメーション図だ。

 ――先輩、熱心だよなあ。

 三上が大学の部に籍を置いてサッカーを続けていることは当然知っていた。
 そのつもりで三上が選んだだけあって相当に強い大学だ。多くのプロ選手を輩出している。藤代のクラブにも同大学の卒業生がいることを先日三上の説明で知った。
 プロサッカー選手への道は様々だ。誰しもが高校選手権やクラブユースでその才を見初められるわけではない。
 残念ながら藤代自身はまだ三上と顔を合わせる機会には恵まれていなかったが、大学とプロのクラブで練習試合が組まれることも多い。それは三上たちのような人間にとって大切な『就職活動』の場だ。
 部活とはいえ、三上に一切の手抜きは見られない。むしろチームの中心を担っているのだろうと、その熱心さから容易に窺い知れた。
「セットプレイっすか?」
 三上の手許を覗き込みながら、藤代も座布団に腰を下ろす。
「藤代、お前ならこの場面どう動く?」
 紙面から目を離さず、真剣な口調で問う三上に、藤代はあっさりと答えた。
「そんなの実際にボールがきて動いてみないとわかりまセン」
「素人みたいなこと言うな!プロだろお前」
「えー、オレは理論より感性でやるタイプだって先輩も知ってるでしょ〜」
「感性じゃなくて本能だろ。いいから答えろ」
「このA君は右利き?左利き?」
「左」
「ううーん」
 藤代は一度首を捻ってから、紙の上の軌道を指先でなぞってみせた。
「じゃあ、こういってこう、かなー。そこで味方のセバスチャンが囮で走り込んできてくれると言うことなしですね。こっちのDF、ケアに気ィ取られるはずだし」
「セバスチャンはどこから湧いて出た名前だ」
「あ、今のチームメイトの裏ネームなんスよ。ちなみにオレはハイジね。誠二とかけてあるんですよ? ちなみに水野の裏ネームは」
「やっぱりお前もこっちを選択するよなあ」
「質問しといて聞いてないし!」
「水野はクララだろ」
 相変わらず目線は離さないまま、三上がぼそりと言った。
 藤代は思わず声を上げる。
「なんでわかったんですか!先輩なら水野のことロッテンマーヤさんって言うと思ったのに!」
「いや、あのどうしようもない甘ったれはクララだ、クララ。去年もハイジのお前にべったりだったじゃねえか」
「おお、先輩よく知ってるッスね!」
「――お前のチームは結構見てんたぜ俺」
「え……?」
 藤代が顔を上げると、三上は小さく笑っていた。やさしい眼差し。藤代はどきりとする。本当に、いつのまに、この人はこんな柔らかな表情を見せるようになったんだろう。
「セバスチャンが誰だかまでは知らねーけどな」
 三上は藤代がなぞったのと同じように指を滑らせて。
「でもお前がここで走り込んで来て欲しいって言うんなら、11番のパウロか。あのブラジル人はお前が出る終盤になるとちょっとバテてんな。と見せかけてサボってるだけかもしれんが」
「三上先輩……」

 ――本当なんだ。見てるって……。

 我知らず、胸がいっぱいになる。
「そう!あいつサボるんですよ〜!勤勉な日本人には考えられないデス!」
 すっかり舞い上がってしまって思わず大きな声になった。頬杖をついた三上がいつもの調子で苦笑する。
「お前みたいなのが日本人の勤勉さを口にするのもどうかと思うが」
「それはさておき、先輩いつからうちのチームのサポーターに!? サイン欲しい?オレの!今なら練習したてのスペシャルバージョンですよ!」
「なってねえし、いらねえし。……最近、チラシの裏に謎の文字が記されてんなと思ってたら、あれはお前の仕業か」
「サポーターじゃないんなら、なんでオレのチームのこと詳しいんですか」
 一瞬、三上が真顔になった。予想外のリアクションに藤代も目をぱちくりとさせる。
「それは……」
 言いよどむような三上の素振りに、ふいに藤代の中で何か期待のようなものが生まれた。
「それは?」
 藤代は炬燵に手をついて身を乗り出す。
 それを避けるようにして三上が身体を引いた。ついで目線もそらされてしまう。そのまま三上はぼそぼそと言った。
「……後輩の進んだ先は気になるだろ。お前の場合、助言もしたわけだし」

 ――後輩、か。

 藤代は高鳴った気持ちが急速に萎んでゆくのを感じた。
 合わせるように乗り出していた身体もゆっくりと座布団に戻す。

 ――うん。わかってるよ先輩。先輩の面倒見のよさも、義理堅さも。

 立てた膝に自分の顎をのせるようにして、藤代もまた三上から顔をそらした。 

 ――ぜんぶ、それはオレが後輩だから。

 当たり前のことなのに、それがひどく寂しい。
 自分のこれは恋なのだと――、藤代はなぜかそのとき唐突に思い知った。
 期待に膨らんでは失意に沈む心。翻弄される。もう戻れない。


「よし。明日はやっぱりそれで試してみるか」
 話のケリをつけるように、三上が手許の紙を回収して立ち上がった。
「明日って何?何かあるの?」
「ああ、練習試合。春から入学の新人も見学しに来るらしいし、先輩としてはいいトコ見せとかないとな」
 三上はそう答えると、とても楽しそうに笑った。

 ――オレ、その新人たちに嫉妬しそうなんですけど。

 助っ人扱いでオレ混ぜてもらえたりしないかな、と呼ばれてもいないのに考えを巡らせてしまう。
 そもそも明日だって所属するクラブの練習がある。
 藤代のそれは仕事なのだ。
 クラブの練習を独断で休んで大学生の練習試合に混ざるなんて、できるはずがなかった。
 まずバレないわけがなく、大学関係者からすぐにクラブに話がいって懲戒モノだ。
 第一、三上がそんなことを許すなど、仮定でもありえない話だった。
 強い押しには弱いくせに、それでいて常識とモラルについては渋沢並に厳しい。ときにそれは渋沢以上の潔癖さを見せることがあった。

 ――だからこそ踏み込めない。

 藤代はこの日初めて、安易に同居など決めてしまった過去の自分をほんの少しだけ呪いたくなった。



□□□



 同居を始めて数週間が経過した。

 もともと順応力の高い藤代や周囲にこだわらない性格の間宮は別として、最初は藤代の突飛な行動に呆れていた三上もこの状況に意外とすぐに馴染んだように見えた。
 もともと数年前まで同じ釜の飯を食い、寝起きをともにしていたのだ。狭い空間の中で自分と相手の領分を切り分けながら互いに快適に過ごす術を自分たちはすでに身につけている。

 ただ、藤代は少しだけ意識して三上の領分に自分のそれを沿わせた。

 ――でなきゃ、ムリ言って転がりこんだ意味、ないもんね。

 三上の帰りを待っていっしょに夕食をとる。
 遅くなるとき、三上は前もって作り置きをしておいてくれるのだが、藤代はよほどの時以外は手をつけなかった。
 『待ってなくてもいいのに。そのための作り置きだろ?』と三上は言うが、夕食は勉学に部活にと多忙な三上と過ごせる貴重な時間なのだ。
 先にひとりで済ませてしまうなんてもったいない。

「なんか寮にいる時みてえだな」
 野菜炒めに箸をつけながら、三上がぽつりと口にした。
「そうッスかね?」
 クラブの寮を出て久々に自宅の食卓のような雰囲気を味わっていた藤代にとっては意外な言葉だった。
「ひとりのメシじゃねえし、お前もいるから……」
 同居を始めてから知ったことだが、三上と間宮の時間が重なることはあまりない。たまたま藤代が訪問してきた日が珍しくタイミングが合った日で稀なことだったようだ。三上の話によると、学部が違う上に三上は部活、間宮はバイトをしていて、一日顔を合わせないこともあるそうだ。確かに間宮の帰宅は遅めで、日によっては夕食をバイト先の賄いで済ませてくることもあった。
「……ねえ、先輩」
 どこかかすかに安堵したふうに見える三上の顔を目にして、藤代は手にしていた丼鉢――茶碗の代わりである――を横に置き、躊躇いがちに口を開く。
「なんだ?」
「オレ、もうすぐキャンプ始まっちゃいますよ……?」
「ああ、そうらしいな」
「あんまり今みたいなのに慣れるとやばいんじゃないスか……?」
「は?」
「え、いや、その……オレいなくなったときに寂しくなっちゃいます、よ?」
 上目遣いに藤代が三上を見やると、一瞬の間のあと三上が笑い出した。
「まあ、静かにはなるだろうな。お前ひとりで騒がしさ五人分だし」
「五人分ってまた半端な数字ですね」
「そうか?」
「ねえ、……寂しくて死んじゃったりしない?」
 三上がちらりと目線を上げて口の端で笑ってみせる。
「生憎と俺は兎じゃないんで」
「もー!先輩って、しおらしいんだか、ふてぶてしいんだかゼンゼンわかんないっス!」
「どっちにしろ先輩に対して失礼なやつだな」
 台詞とは裏腹に、今度は声をたてて三上が笑った。
「まあ、お前には悪いけどタイミングとしてはちょうどいい。お前が南国行ってる間、俺たちゃ後期試験だ」
「後期試験?」
「ああ」
「なんで?」
「なんでって……学生だったら当たり前だろうが。お前、俺たちを何だと思ってたんだ?」
 三上が呆れたように藤代を見る。だが、藤代は純粋に不思議だった。
「大学入ってもテストなんてあるんですか?」
「出席とレポートだけで単位もらえる講義もあるけどな。後期はやっぱり試験重視だな。とくに俺は語学専攻だし。他のヤツより試験は多め」
「先輩、語学専攻なんだ?」
「おうよ」
 そんなことも知らなかった。
「オレはまたてっきりサッカー学部かと……」
「んなもん、ねえっつの」
 今度こそ三上は心底呆れたようすで言った。
「だいたい俺はスポーツ推薦じゃなくて一般で入ったんだぞ。センターも受けてたろうが」
「せんたぁ?」
「……もういい。けど、お前も海外でやるつもりなら語学の勉強くらいやっとけ。希望のリーグは?」
「そりゃもちろんリーガエスパニョーラ!」
 憧れのリーグを即答すると、三上が頷く。
「じゃ、スペイン語だな。ポルトガル語もやっとくと南米も範疇に入っていいぞ」
「先輩がオレの通訳になってくれればいいんじゃん。いっしょのクラブに移籍してさ。選手兼オレ専属通訳」
「なんで公私に渡って俺がてめえの面倒見なきゃなんねえんだよ」
 三上は眉を顰めてみせたが、藤代は内心少し嬉しかった。夢物語だと笑われてしまわなかったことが。
「間宮も試験中はバイト休んで真っ直ぐ帰ってくるから、いっしょにメシ食えたかもしれないけど。残念だったな」
「いや、別にオレ、間宮とメシ食いたいわけじゃないからいいッスよ……」 
 思わず目線が斜めになる。わざとなのか天然なのか、こういうときの三上は読めない。
「先輩はバイトしないんスか?」
「ああ。今は完全に親がかり。あと奨学金とな。部活やっててバイトまでしてると学業が疎かになるからな」
「……間宮はサッカー部じゃないんですね」
「研究者になりたいんだと。バイトも院に進む費用を貯めるためだって聞いた」
「間宮のボランチ、悪くなかったのに……ユースにだって何度か呼ばれてたし……」
「うん。でも、間宮が自分で選んだ道だからな」
 穏やかに、とても穏やかにそんな台詞を言う三上の横顔を、藤代は複雑な気持ちで見つめた。
 今は大学サッカーを続けながらプロ入りを狙うこの人も、もし、別にやりたいことができたら、潔くサッカーをやめてその道のほうへ進んでしまうのではないだろうか。
 海外移籍の可能性を頭からムリだと決めつけてしまうようなことはしなかった。
 夢もある。実現に向けて着実に日々を積み重ねている。
 サッカーに執着がないとは言わない。
 けれど、他人に頓着しない藤代ですら惜しむ間宮の選択を受け入れることのできる三上だ。
 サッカーしか知らない自分と違って、三上には藤代がおよびもつかないような知識や教養がある。そこに付随する可能性も無数にあるように思えた。


「なあ、藤代。キャンプ行く前にさ」

 詮もない想像に耽っていた藤代を三上の声が呼び戻した。
「今度の日曜って、空いてるか?」
「え?」
「日曜日」
「も、もちろん、あ、空いてますけど……ッ、練習試合もないし……」
「何どもってんだよ」
「だ、だって……」

 ――もしかしてそれは、デ、デートの誘いってヤツでは……ッ!

「お前の布団とか食器とか……いろいろ買いに行くから」
「あ、買い物ッスか」
「てめえがなんも持ってこねえからだぞ。いつまでも俺と間宮の布団の間で寝るってワケにもいかねえだろうが」

 ――オレ的にはそのほうが三上先輩に近いからいいんだけどな。

 と藤代は思いつつも、けして口には出さない。
 妙な警戒心を持たれるような言動は、とりあえず今のところ慎んでおいたほうがいい。
「そうやってオレの物、揃えていいってことは、本格的にここに置いてくれるってコトですよね?」
「何をいまさら……」
 三上が不機嫌そうに言葉を返す。
 照れ隠しの表情は今もまるで変わっていない。

 ――どうしよう、抱きつきたい。

 これが試合中ならよかったのに。
 そうすれば躊躇いなく、その背に腕を回して力いっぱい抱き締めるのに。
 もうそれは叶わないこと――?

「茶碗も箸も湯呑みも、お前が好きなのにすればいいからな。『アルプスの少女ハイジ』とかどうだ?」
「遠慮しときます。インパクトで間宮のトカゲ柄を超えられるものが思いつかない」
「ああ、あれなー。どこから探し出してきたのか……。布団までトカゲだったらどうしようかってマジであんときゃ思った」
 渋沢だったら間違いなく泣くね、と笑う三上に藤代も同意する。
 頷きながら、それとなく腕組みをして、行き場をなくした衝動を抑え込んで誤魔化した。



□□□



 どうせならオシャレなモノがいいッ、と主張した藤代に「まァ金払うのはお前だし?」との三上の言葉で、二人は近所のホームセンターではなく、都心のファッションビルに入っている雑貨屋へとやってきた。

 ――これでかなりデートっぽい!

 と藤代がほくそ笑んだのは、三上の預かり知らぬところだ。
 非実用的なアイテムを差し出しては三上に却下され、しかし、そのやりとりすらも楽しくて――藤代は久し振りに三上と過ごす休日を満喫した。何年ぶりと言っていいかもしれない。しかも学生時代だってこんなふうに二人きりで買い物にくることなんてなかった。せいぜいクジ引きで負けて買い出しに行かされたコンビニくらいだ。
 藤代がすっかり擬似デートを堪能した頃、それと意識したわけではないだろうが最後の仕上げのように三上が言った。
「んじゃ、軽く何か食って帰るか」
「センパイセンパイ、あそこにしましょー!」
 指差した先にはカジュアルなフレンチの店。
「ゲッ。あんな高そうなトコだめだって」
 蒼ざめた三上に、仕送りと奨学金のみでやりくりしていると聞いたことを思い出す。
「オレが奢りますから!」
 無邪気に言い放った藤代に、三上は呆気に取られたような表情をし、次いで渋い顔をしてみせた。
「お前、本当に……。もらっただけ全部使ってんじゃねえだろうな。ちょっとは貯めとけよ?わかってんのか?」
「わかってますってばー。でも今日はせっかく街まで出てきたんだし、いいじゃないですか」
「わかった。入ろう。でも自分の分は自分で払う」
「えー。たまには後輩が奢るってのもいいじゃないスか。これは今日の御礼です。多忙な先輩が付き合ってくれたことへの」
 にっこりと笑んでみせると、三上は軽く溜め息をついて、その場を引き下がった。
 こういうことで最後まで頑なに意地を張るタイプでもないのだ。そういう切り替えの早さも藤代が好む三上の性質だった。
「鬼のように食って、後で泣いても知らねえからな」
「あはは。いいよ。好きなだけどうぞ」

 店内はやはりというか、その雰囲気に相応しく大人びた客ばかりだった。当然カップルが多い。
 形式ばった店ではないが、学生らしき客は皆無。
 落ち着かない表情をしている三上の前に立ち、藤代は堂々と店内を進む。
 案内の店員に慣れたふうな口を聞くと、三上は少し驚いたように藤代を見た。

「行きつけなんですよ実は。って、言ってもクラブの先輩のですけどね。何度か連れてきてもらったんです」
「そっか。道理で……」
「かなり美味いですよ。オレはあんまり良し悪しはわかんないタチですけど、きっと先輩も満足すると思う」
「学生なんだ。そんな贅沢言わねえよ。食えりゃなんでもいい」
 三上はそんなふうに言うが、きっとここの料理の価値がわかるのは自分より三上だ。
 単に好きな人に食事を奢りたいという衝動の他に、三上になら良さを理解してもらえるだろうという期待がある。そして喜ばせたいという気持ちが。
「それにしても」
 席について注文を終え、ウェイターが離れると同時に三上が口を開いた。
「ホントにお前、変わってねえよな。強引っていうか、マイペースっていうか……」
「でも先輩、そんなオレにいつも付き合ってくれますよね」
 くすっと笑うと、三上が言葉に詰まったような表情をしてソッポ向いた。

 ――ああ、カワイイ!

 藤代は思わずテーブルの下で握り拳を作る。
 はっきり言って、店内のどんなに着飾った女のコたちよりも、目の前の三上の方が断然かわいいのだ。

 ――でもってキレーだし。

 高校時代の黒い髪はそのままに、少し大人びた輪郭、伏せ目がちの瞳にかかる長い睫毛。
 やがて運ばれてきた料理を美しい所作で口にする。

 ――たぶん躾が良かったんだろうなァ。

 三上が食事するところを見ると、藤代はいつも感心するのだ。
 知り合いの女のコの中にもこんな綺麗に食事をするコはいない。
 店に入ったときこそ落ち着かないふうだったが、三上はすぐに場の雰囲気に馴染んだ。
 ジーンズに綿のジャケットというカジュアルな格好なのに、落ち着きはらったその態度はどこか品の良さを漂わせていて、まるでフォーマルでも着こなしているかのようだ。
「そんなに見てても人参は食わねーぞ」
 藤代の不躾な視線に気づいていたのか、三上が淡々と言う。
「あ、ヤダな。違いますよ」
 苦笑してみせてから、皿に盛られた付け合わせの野菜ソテーに手をつける。
「オレもう人参食えますよ?」
 そう言って、三上の目の前でなんでもないように口にしてみせる。表情も変えずに噛み砕いて飲み込んで、ちらりと三上を見やった。
「いつまでもコドモじゃないですからね」
「………」
「あ、三上先輩、今ちょっとオレに見とれた?」
「なーんで、俺がお前に見とれなきゃなんねえんだよ」

 ――見とれていたのはオレのほうなんだけどね。

「確かに食えるようになったみたいだな。たいしたもんだ」
 藤代の弱点がなくなってしまったことがつまらないのか、どこか不機嫌そうに三上は言った。
 ずっと夕食のメニューに人参を含めなかった三上の配慮を思い出し、藤代も黙っていたことについて少しだけ申し訳ないような気分になる。
 だけど、これだって――

「ガキはガキなりに、これでもいろいろ考えてんですよ」

 急に声のトーンを変えた藤代に、三上の手が止まった。
「どうやったら大人に見てもらえるのかなって。人参くらいで馬鹿みたいですけど」
 訝しむような三上の視線に背を押されるように、藤代は言った。
「オレね、先輩のためにいい男になろうって決めたんです」
 窓の外に視線をやって藤代は半ば独白するよう口にした。
「プロになって一人前になって――そしたら渋沢先輩のことも意識せずに三上先輩に向き合えるかなって」
「……渋沢?」
 なんの脈絡もなくその名が飛び出してきたことに、三上が不可解そうに眉を寄せるのが気配でわかった。
 けれど、藤代はそれには構わず続ける。
「先輩がオレのこと、後輩としてじゃなくて、もっと違う目で見てくれるかなって」
 喋っているうちに感情が昂ぶってくる。何度も封印したはずの、せつなさが込み上げてくる。

「藤代誠二として――ちゃんと見てくれるかな、って」

 そこで藤代はゆっくりと三上のほうに向き直った。
「……俺はちゃんと見てる」
 三上が不本意そうに口にした。
「そうかな……?」
 藤代はそんな三上の言葉にも苦く笑う。もう抑えがきかなくなっていた。

「だいたい、なんで俺なんだよ……」
 呟くような三上の台詞が耳に入ってきた途端、藤代の中で何かが弾け飛んだ。
 照明を絞った薄暗い店内の雰囲気が藤代をことさら大胆にさせる。
 理性のどこかが待てと告げているが、藤代は聞かない。聞けなかった。

「好きなんです」

 急がない、と決めたばかりなのに気がついたら言葉にしていた。

「三上先輩のことがずっと好きで、今でも好きなんです」

 わずかに目を見開いた三上の顔が映る。

「こういう意味で」

 椅子から立ち上がって、その唇を掠め取るように口づけた。

 永遠のように長くも、刹那のように一瞬の出来事にも、思えた。

 ――こういう感想は普通キスされてるほうが抱くんだろうけど。

 唇を離し、正面で三上の反応を待つ。
 緊張で神経が焼き切れそうだ。
 瞳は三上の姿を映しているのに、頭がそれと認識していないような感覚。
 三上から返った一言は短かった。

「食事中」

「すみません。でもちゃんと伝えておきたかった」
 さしたる動揺を見せない三上に少し拍子抜けしながら、席を立たれなかったことには感謝した。
「座れ。次の皿、来るぞ」
「はい」
 藤代が椅子に戻ると、ほどなくウェイターがやってきて料理を並べてゆく。
 二人の間に落ちる沈黙は不自然なものにはならなかった。
 だが、きっとウェイターが去ったあとに三上は用意した回答を言葉にするだろう。
 早まっただろうか。
 いや、どう考えても早まった。
 藤代は己の失態を早くも後悔し始めていた。
 試合でヘマをやったときでもこんなふうに思ったりはしない。

 ――焦った。焦りすぎた、オレ。

 もっと時間をかけるつもりだった。
 それと匂わせて、自分の気持ちを徐々に伝えて。少なくともこんな唐突なやり方は考えてもみなかったのに。
「……なあ」
「はい」
「今のって告白として受け取っていいわけ?」
「もちろんです」
「……わかった」
 それだけ言って、三上は淡々と食事を再開する。

 ――あ、れ?

「お前も食えよ。冷めるぞ」
「あ、はい……」
 促されて口に入れるが、もちろん味はよくわからない。
 もっとわからないのは三上の態度だ。
 拒否されなかった。これは脈ありと見てよいのだろうか。
 そんな思考が浮かんだ瞬間、藤代の胸が正直に高鳴る。
 けれど、あまりに動じない目の前の三上の様子に、この場は流されただけなのかもしれないとも思う。
 三上はそういうところは思いやりが深い。
 真剣な藤代の姿勢を徒に退けたりはしないだろう。
 きっと店を出たら最後通牒が下されるのだ。
 藤代は我知らずテーブルの下で固く拳を握り締めた。
 店に入ってきたときとは、天と地ほども違う理由で。


 だが、店を出たあとも、藤代が覚悟したような決定打となるべき言葉は、三上からついぞ下されることはなかった。






――4へ続く。










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