藤代の告白のあとも三上の態度は変わらなかった。 いちばん危惧していた可能性――同性だからと嫌悪されなかったことに、まずは安堵した。しかし、意識してもらえたのか、なかったこととして流されたのか、結果は判然としない。現状から考えれば後者の可能性が高いが、でも、ならば、あの回答はなんだったというのだ。 ――正直、こういう生殺しみたいなのは超苦手なんだよね。 先輩だって知ってるくせに、と藤代は三上の見えないところで恨みがましい視線を向けた。 三上は自宅の回線にかかってきた電話に応対中だ。 端正な横顔。 視線はやがてその口許へと移動し、止まる。 やはり諦めきれない。 藤代は思った。 唇に、あの日ほんの一瞬だけ味わった感触が甦る。 ――ごめん、先輩。やっぱり好きなんだオレ。だから……。 電話を終えて三上が戻ってくる。 「今夜は間宮帰んねえって。研究室に泊まりがけで実験なんだと」 と、いうことは。 ――間違いなく一晩中、三上先輩と二人きり。 藤代は思わず肘を引いてこっそりガッツポーズしてみせた。 そう、この日が来るのをどれほど心待ちにしたことか。 ――今夜オレは一気に勝負に出るぜ……! それで振られたとしても構わない。いや、構わなくはないが、とにかくこの灰色の状態はだめだ。白か黒か。はっきりさせて、それでダメならもう一度最初から染め直すのだ。 「春休み中だってのに、あいつも熱心だよなあ」 三上が純粋に関心したように呟くのに対し、藤代は不純な思いから、うんうんと頷いて。 「熱心なのはよいことです! あいつはきっと将来それはもう有名な学者サンになりますよ!」 「学者サン、ね……」 少し笑った三上に、藤代は勢いづいて言った。 「末は博士か大臣かってヤツですね!」 「……なんでお前がそんな言い回し知ってんだか、俺はときどき疑問に思う」 まったく今までと変わらないやりとり。 あの程度では自分たちの関係は変質しなかった。それを有り難くも――寂しくも思う。 もうこれで何度目になるのか、いつものように二人きりで夕食をとる。 藤代はチームの話、三上は部活の話を。 いつものように、交わしながら―― 「大切なのはゴール前で迷わねえことだ」 「迷わずシュートでしょ」 「FWはやっぱそれだよな」 「任せてください」 三上の言葉に藤代は大きく頷く。 「ストライカーとしての威信にかけて、狙ったチャンスはゼッタイに外しません!」 「って、お前に言われてもなァ。ウチの前線もそんくらい強気だったらいいんだけど」 三上が苦笑する。 本当は噛み合っていない会話に気づくこともなく、三上が笑っている。 この笑顔を明日の朝には失っているかもしれない。 だが、そうとも自分はエースストライカー。 この煮え切らない状態にいつまでも惑ってるなんて、自分らしくない。 ゴール前だ。 迷わずシュートにいって――決める。 □□□ 三上より先に風呂を済ませた藤代は炬燵に入り、頬杖をついてぼんやりとテレビ画面を眺めていた。まるで内容が頭に入ってこない。意識はバスルームのドア向こうから聞えてくる水音に攫われている。その水音が止んで、何かを片付ける気配。もうすぐ三上がそこから出てくる。藤代は頬杖をついていた両手を首の後ろに回してそのまま突っ伏した。 背後でドアの開く大きな音がした瞬間、藤代はぴんと背筋を伸ばし、自然を装い、頬杖をついた元の姿勢に戻る。 「切らしかけてたシャンプー補充してくれたの、お前だろ。サンキュ。共同費で落とすからレシートくれ」 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを片手に、タオルで髪を拭きながら、三上が声をかけてくる。そのまま炬燵に入って藤代の斜め前に座るとペットボトルを傾けた。 「レシート? そんなの、もらったっけ? いいッスよ、別に」 「じゃあ、適当な値段で次回分の家賃から差し引いとくな」 「いいって言ってんのに」 「こういうのはきっちりやらねえと気が済まねえんだよ」 湯上がりで上気した肌が襟刳りからのぞく。 知らず釘づけになっていた目線を、はっとしてそらした。 今までどおりの態度を見せているとはいえ、この三上はもう藤代の気持ちを知っているのだ。 不自然さは何でもない会話を交わすことで誤魔化す。こんなことも最近何度繰り返していることだろう。湧きあがる自嘲の念をやりすごし、藤代はことさら軽い声で言った。 「しかしまあ先輩、寮にいた頃の横暴っぷりが嘘のようですね」 「横暴とは人聞きの悪い」 「『後輩のものは俺のもの』的ジャイアニズム炸裂させてたのに」 「俺だけじゃねーだろ。それに俺だって先輩にさんざ横取りされたんだ。あれは松葉の伝統だろうが」 「嘘だ! 三上先輩から横取りしようなんて勇者いるはずない!」 それには答えず、三上が横目で藤代を見る。 「お前も大概だったろうが。渋沢の勝手に拝借してさ。あんとき、すげー怒られてたよな」 「ああ、松葉の寮史に残ると言われた椿油事件っスか。キレた渋沢先輩の恐ろしさをこれ以上ないってくらい思い知りましたね」 「渋沢をマジギレさせるような勇者はお前くらいのもんだよな。つか、フツー後輩が先輩のもんに手ェ出すかっての」 「でもあれ、オレをハメたのは中西先輩なんスよ?」 「中西の口車に乗せられるほうが悪い」 「あんとき結局、近藤先輩もいっしょに怒られたんですよね。実は一回しか使ってないのに」 「近藤ってつくづくそういうキャラだよなあ」 仲間たちのそれぞれの顔を思い出し、二人で笑った。 ひとしきり中高生時代の想い出話を語り合うと、三上が手の中のペットボトルを見つめながら独り言のように呟いた。 「六年も寮生活だったせいかな、いつのまにか、大勢で暮らす方に慣れちまったみたいでさ」 「ああ、わかります」 「間宮と同居は始めたけど、あいつ忙しいからあんまり部屋にいることないし」 「そうですよね。意外と顔合わせないんだなーと思いました」 藤代としては肩透かしだったくらいだ。当初の意気込みを思い出し、間宮に張り合おうとしていたあのときの自分を少し滑稽に思う。三上のほうを見やると、三上の目線はまだペットボトルの中の水面に向けられているままだった。 三上がこちらを見ていないのをいいことに、藤代はじっとその横顔を見つめる。 「最初はなんつう無茶を言い出すんだと思ったが」 三上が思い出したように苦笑し、そして時折見せる大人びた穏やかな表情で口にした。 「お前が来てくれてよかったよ」 それは三上にしてはありえないほどの素直さで。 ――ごめん先輩。オレもう限界。 「なッ……藤…代……?」 三上の手を離れたペットボトルが炬燵の上を緩慢に転がってゆき、天板の縁で止まる。 不意をついて抱き締めた三上の身体はすっぽりと藤代の腕に納まった。 ――あれ? この人、こんなに小さかったっけ? 試合中に抱きついたときだってこんな感想は抱いたことがない。 藤代は不思議に思いながら、自分が買ってきたシャンプーの香りを漂わせる髪に誘われるよう顔を寄せた。 「ねえ三上先輩」 耳元へ囁くようにして問いかける。 「この前の告白、覚えてるよね?」 瞬間、三上の身体が強張った。ああ、やっぱり……、と答えを意図的にはぐらかされていたことを思い知る。けれど、腕の力は緩めなかった。 「……おいコラ離せって」 「なんで答えをくれないの?」 「離せってば」 「イヤならちゃんと振りほどいて」 「藤代」 咎める強い口調とは裏腹に三上の肩が震えている。 平和な時間を壊したことに苦い気持ちを味わいながら、しかし踏み出す己が止まらないことも藤代は自覚している。 間違いなく自分と同じ男なのに、どうしてだろう、触りたい。もうずっとこんなふうに触りたかった。 三上を抱き締めたまま、炬燵の上に片手を伸ばしてテレビのリモコンを掴み、スイッチを切った。静寂と沈黙が一気に押し寄せる。三上は身じろぎひとつしない。凍りついたままの時間に藤代は苛立ちよりも、なぜか三上に対するいたましさのようなものを感じて、そっと身体を離した。それでも逃してやることはできず、手を伸ばして三上に触れ、俯こうとする顔を上げさせた。 「オレのこと、イヤ?」 両の頬を掌で包み込み、真摯な瞳で覗き込めば、三上はふいと目をそらす。 「そんなんじゃ…ね…けど……ッ」 藤代は目を瞠る。少し、思っていたのと違う反応。それに背中を押されるようにして言った。 「オレのこと、好き?」 直球。 これでまだはぐらかそうとするならば実力行使に出る。 そんな不穏なことを藤代が目論んでいると。 「………………………………………聞かなくてもわかんだろ、そんくらい」 長い長い沈黙のあとに三上の口から紡がれた言葉に、藤代は一瞬呆気に取られた。 しかし、状況判断の素早さと的確さは何もピッチ上だけで発揮されるものではない。 「え………ええーッ!?」 理解し叫んだ藤代に、三上があからさまに眉を顰めて顔をそらす。舌打ちまで聞こえてきた。 「わかんない! 先輩、教えて! ちゃんと言葉にして!」 矢継ぎ早に言葉を紡いで三上に隙を与えぬまま、ほとんど叫ぶようにして最後に言った。 「じゃなきゃ態度で示して!」 勢いに乗って押し倒す。 「ちょ、おい、こら、チョーシ乗んな!」 驚いて見上げてくる三上に顔を近づける。 「三上先輩」 口づけた。顎をしっかり固定して逃れられないようにする。 強引に舌を絡め、深く侵入する。 と、同時に裾から手を差し入れて素肌を撫で上げた。 ここでようやく三上が我に返ったように抗い、藤代の両肩を掴むと渾身の力で押し返してきた。 「て、て、て、展開早過ぎだろお前」 「だって! オレ、絶対ダメだと思ってて!」 「いや、だから、それ、答えになってねえし!」 「まさか三上先輩が応えてくれるなんて……!」 「人の話聞けよ頼むから!」 ――どうしよう。 歓喜が満ちる。いくら抱き締めても、いくら口づけても足りない気がした。 「抱かせて」 「………ッ!」 「先輩、抱かせて」 「ま、待て待て待て待て! い、いきなりそれか!? お前、高校生かよ!? だから、ちょっと待てって!」 「間宮には許して、オレはダメなんですかッ」 「そういうワケじゃ……っていつ俺が間宮に許したッ!?」 焦りながらも至近距離で三上が律儀にツッコミを入れる。 ――あ、そうだ。あれは夢だったっけ。 と藤代も我に返ったが、乗りかかった船、この際そんなことはどうでもいいのだ。 今ここで、自分が三上を抱くことさえ叶えば。 こんな想いをぶつけられる方法を自分は他に知らない。 ゴールは間近だ。こんなチャンス、逃せない。 「先輩好きです」 抗うことをやめない三上の手を取り、そっと横に押しやって藤代は囁く。 言葉を失ったままの三上の背に手を回してゆっくりと沈めるように身体を落としてゆく。 抱き締めた三上の背がびくりと震えるのが、腕に伝わってきた。 「も……冗談言ってんじゃねーよ……」 最後の足掻きのように三上が弱々しく返すのを、藤代は真摯な声で打ち消してみせる。 「冗談なんかじゃないよ。知ってるでしょ?」 「………ッ」 三上が息を詰めたのが顔を見なくともわかった。 「好きなんです」 藤代は繰り返した。 自分の内にある想いをすべて込めて。 「もうずっと」 □□□ ――さすがに、こんなに早く想いが遂げられるなんて思ってもみなかった。 と思いつつ、藤代はしっかり事前に準備してあった布団へと三上の身体を押し倒し横たえる。 あのまま炬燵でやってしまうのもありだったが、こうして隣室へ移る時間をおいても三上の気が変わらなかったことを確認したかった。 強気でコトを推し進めたものの、実はやはり藤代も不安だったのだ。 ――まだまだストライカー失格だなオレ。 藤代の手に抗わない三上をしあわせな気分で見つめていると、突然三上が藤代の下で声を上げた。 「って、俺がされるほうなのか……ッ!?」 ――抱かせてって、さっきも言ったじゃん。 と思っても口にはしない。 「いや、先輩がしたいってんならジャンケンで決めてもいいんですけど」 「ジャンケンって、おま……」 「ていうか、先輩できんの?」 「お前こそできんのかよ!?」 ――あ、質問返しできた。 内心でニヤリとしてしまう。が、もちろんこれも顔には出さない。 できるできないは愚問だった。生殺し状態に置かれつつも、こういう事態を想定しなかったわけではない。いい加減に見せかけてこちら方面での準備は怠らないのが藤代だ。手の届く範囲での情報は取得済。しかし、それを匂わせるようなことはせず、しらばっくれてみせた。 「んー、なんとなく大丈夫だと思うんですよね、オレ。向いてるってゆーか」 「曖昧にぼかしつつ、さらっと恐ろしい台詞を吐くな!」 「ほら、FWだし」 「関係ねえだろ!」 なぜかここに来て必死に叫ぶ三上に、藤代はふと微笑んでみせた。 「先輩がオレを抱きたいってんならいいよ。オレも先輩のことすごく抱きたいから。そうだ。こうしたらいいよ。交替でし」 しよう?と藤代が言い終わらぬうちに三上がその提案を遮った。 「わかった!」 「三上先輩?」 「わかった。お前がどうしても我慢できないと言うならやるしかなかろう」 「やるしかなかろうって……」 「違うか?」 「ううん、違わない」 難癖をつけて今さら逃す手はない。藤代は嬉々として三上の胸に顔を埋めた。そして気づく。 「先輩、すごい心臓バクバク言ってるんスけど」 「男に押し倒されて平静でいられるほど奇特じゃないんで」 口調だけは冷静を装って答える三上に、藤代はじれったい気持ちになる。 「あーもー、いいじゃん。やらせて!」 「藤……ッ」 制止の言葉は藤代が塞いだ口の中に消えた。 最初のうちは自分もさすがに緊張していて気づかなかった。 けれど、だんだん落ち着いてくるにつれ、比例するように藤代の心の中を占め始めた疑念があった。 三上の動きが――とにかく、なんというか――非常にぎこちないのだ。 表情が見たくて、なるべく明かりは絞らずにおいた。酷く怯えたり嫌悪を見せたりすればすぐに中止しようと、そのくらいの情は藤代の中にもあって、注意していたのだが、しかし、どうやらそういうわけでもなさそうだった。 「先輩……もしかしてセックス初めて?」 恐る恐る藤代が口にした瞬間、三上の顔がぱっと朱に染まった。 「えッ、マジっすか?!」 あまりにわかりやすい反応に、思わず内心の言葉が声に出てしまう。 「るせーよッ……」 不機嫌きわまりない声で言って三上が顔をそむける。 だがその耳は赤く、頬に差した朱も引かないままだった。 「って、女のコとも経験ないの!?」 「………」 三上は無言。 「ないんだ……」 藤代はつい確認するよう呟いてしまって、無言のままの三上から腹に蹴りを食らう。 しかし、痛みもそれと知覚できぬほど、藤代は驚きに呆然としていた。 藤代は自分を基準に考えて、てっきり三上もいわゆる『初体験』などとっくの昔に済ませたものだと思っていたのだ。 ――そういや、この人、妙なところで生真面目というかオクテだったもんなァ。 「とゆーことは先輩、まだ童貞で処女ってコトっすよね」 「その言い方よせ……」 驚きから一歩前進、やけに元気さを増す藤代の声とは対照的に、三上の声は消え入らんばかりだった。 自分の肩口に顔を寄せ、藤代の視線から逃げるようにしている。 「それでよくオレと主導権争そおうとしましたね」 「だからすぐに退いたろ……」 「ああ、そうか。初心者ですもんね」 「そうそう初心者だよ。自分で言うのも何だが、こういうことは最初が肝心なんだろ。お前のやりようによっては金輪際こういう行為を赦すことはないと思え。自信がないなら出直して来い」 自棄になったのか、なぜか居丈高に宣言する三上に、藤代はぺろりと唇を舐めてみせた。 「大丈夫、先輩。オレ上手いよ?」 「言ったな」 三上が苦い表情で見返してくるのに、藤代は笑みを浮かべ、それを見下ろす。 「言いました」 これまで隠していた獰猛さを笑顔の下に滲ませる。三上は気づいたろう。三上の曝け出された咽元が唾液を呑み込み、ゆっくりと動く。それを見届けたあと、藤代は一転して明るい声を出した。 「みてて。スッゴク気持ちよくしてあげるから」 にこりと笑って、三上の顔を覗き込む。 「飛んでっちゃうくらいにね」 ――5 or 6へ続く。 |
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