引っ掻き回すだけ引っ掻き回しといて、さっさと自分はカタつけて――そんな晴れやかな顔で笑っている。



 目の前の三上から歪みが消えていた。
 自分だけを置いて彼は過去を昇華したのだ。桐原、――武蔵森の監督と和解したのだという話は人づてに聞いていた。だが、こうも変わるものなのか。水野は唇を噛んだ。

 憎らしかった。
 皮肉げな笑みを浮かべていた頃の彼の方がまだ数倍マシだった。
 すべて吹っ切った表情で、あっさり謝りの言葉を口にするその唇が憎らしくてたまらなかった。
 落ち着きはらった顔は大人のそれで、嫉妬や執着の消え去った瞳にはもう自分だけが映されるようなこともない。

 ――自分だけが映されるようなことは、もう。

 その考えは水野の苛立ちを決定的なものにした。
 苛立ちと憎しみは怒りに、怒りは衝動に。

 再び、あの歪んだ瞳を自分に向けさせたいと思った。
 口許は余裕ありげに笑みを浮かべていても、目にはすべてがあらわれていた。あの時の瞳。
 焦燥、嫉妬、執着……。




 たぶん今の自分がしているような目。












その果てに
----------------------------------













 それは突然の呼び出しだった。


 藤代に番号を聞いたのだと前置きして、三上は言いにくそうに、だが、はっきりと伝えてきた。
 ――忙しいときに悪いんだけど、ちょっと時間もらえねえかな。
 それは今までの三上亮という人間の印象を裏切るような、声と口調だった。


 高校二年の夏だった。
 ちょうどクラブユース選手権が終わって一段落した頃で、三上のほうではインターハイが終わったようだった。
 忙しいはずなんてあるわけがない。三上はきっと水野の事情もちゃんと把握してこのタイミングに電話を寄越したに違いなかった。
 それでも会う理由はない。少なくとも水野にはなかった。
 ただでさえ苛々しているときに――水野はこの夏ちょっとしたスランプに陥っていた――会いたい人間ではなかった。
 でも、水野はこうして待ち合わせ場所にやってきた。
 気がつけばいつも、なぜか記憶の片隅にいる人物からの誘いを断る気にはなれなかったのだ。


「お前には謝ろうと思ってた。ずっと」


 ファミレスのアイスコーヒーを前に三上は開口一番そう言った。
 白いシャツ。
 夏の午後の日差し。
 お互い、厳しい夏を過ごしてきた証である日焼けした肌をしていた。
 水野の前にはアイスティー。まだ口をつけないまま、そこに置かれてある。

「すまなかった。――あのとき俺は自分のことしか考えられなくて、監督とお前の確執を利用してやろうって思って……。それがどんな結果になるかまで思い至らなかった。あんなことがなければ、お前はうちに来たかもしれなかったのに、……悪かった」
「なんで今さらそんなこと俺に言うんだ……」
 水野が俯いたまま搾り出した低い声に、三上が躊躇ったのがわかった。
「……自己、満足なのかもな。お前に謝ることで俺がラクになりたいだけなのかもしれない」
 自嘲を滲ませた声に、けれどそれだけではないことが十分に伝わってくる。
 三上は本気で謝罪の言葉を伝えてきた。
 今もこうして素直に己の心情を吐露している。
 それは水野にとって受け入れがたい光景だった。
 こんなものを期待してここに来たわけではない。
 こんな三上に会うために、わざわざやって来たわけではないのだ。
 怒りで目の前がくらみそうになる。
「水野…?」
 訝しげに首を傾げる仕種すら、信じられないほど無防備で。
 これがあの三上亮と同一人物なのかと疑いたくすらなる。


 中学卒業後、水野は高校サッカーではなくユースを選んだ。
 とにかく桐原の名がちらりとでも垣間見える場所に立つことを避けたい一心でだった。
 たとえ敵校であっても、ひたすら関わりあいたくなかった。当の武蔵森など、もってのほかだった。再三の誘いを蹴って、水野は今の道を自分で選んだ。それは三上に謝られるようなことじゃない。たぶん三上もそれをわかっているのだろう。歯切れ悪く、三上は続けた。
「今さらってのはわかってる。突然呼び出されてこんなこと言われても、な。お前も困るよな……。ただ、監督とお前にはどうしても一度謝っておきたくて、……悪い。それだけだ」
 あとはいたたまれなくなったのか、ただ黙ってアイスコーヒーのストローに口をつける。すべて飲み干し――帰ろうと三上が腰を浮かせかけた時、初めて水野は口を開いた。


「待てよ」


 出した自分が驚くような、我ながら落ち着いた声音だった。
 目には見えないが、まるで物理的な強制力があるかのように、三上は言葉どおり動かない。
「アンタは俺に償う義務がある」
 冷たく言い放った台詞に、三上が反応したのがわかった。水野はなぜかそれにささやかな快感を得た。もっと傷つけたい。そんな昏い思いが生まれてくるのを自分でも感じた。
「来いよ」
 そう促して席を立つと、三上はまだ座ったままで理解できないというように水野を見上げていた。
 シャツの襟ぐりから顕わになっている鎖骨。
 水野は目を眇めてそれを見下ろした。
「俺の家」
「なんで」
「見せたいものがある」



□□□



「家の人はいないのか……?」
「ああ、女たちだけで揃って一泊旅行に出かけてる」
 そう言われても、初めて通された水野の家で三上は戸惑ったような素振りを見せながら中へと上がった。
 水野はそんな三上のようすを横目に玄関の鍵をかける。
 それはカチリと大きな音を立てて、二人だけの広い家に響いた。


 運が悪かったな三上。
 こんな日に俺を呼び出したりするお前が悪い。
 こんな場所にのこのこと無防備についてくるお前が悪い。
 あんなこと、言い出したお前が悪いんだ。


「入れ」
 自室に案内し、クーラーのスイッチを入れて送風を最大にした水野に、三上が遠慮がちに言う。
「お前、ちょっと冷やしすぎなんじゃねえの……?」
「いいんだよ。これから必要になるから」
 三上がそこで初めて不審そうな表情を見せる。
 けれど、まだまだだ。
 まるで警戒心が足りない。
 水野は口の端でこっそりと笑んだ。
「見せたいものって何」
 ベッドを背に三上は立っている。
 本当にバカだ。水野は嗤い、次の瞬間、三上の横面を殴りつけた。


 三上の身体は、思ったよりあっさりと傾ぎ、当然の流れのように背後のベッドへと倒れ込んだ。
「な……」
 突然のことに動揺する三上の隙を見逃さない。
 腹に乗り上げるようにして抑え込んだら、一瞬息を詰まらせた三上が苦しそうに咳き込んで、横向いた。
 こんな暴力的な衝動に駆られたのは初めてだった。
 屈服させたい、そんな思いが溢れ出して止まらなくなる。


 何かもっと、決定的に、相手に、屈辱を与える、方法。


 もう一度、今度は膝で鳩尾に蹴りを入れて三上の動きを止めると、シャツの前を乱暴にはだけてやった。
 そうしてその胸のあたりに唇を落とす。
 肌を顕わにされた三上が、そこで心底驚いたような顔になった。
 見開かれた瞳、そして、すぐに水野がこれからやろうとしていることを悟ったのか、驚愕と嫌悪とわずかな怯えが綯い交ぜになってその表情をよぎる。
 それは水野にとって快感だった。
 三上をそんなふうにできるとは思わなかった。

「……見せたいものって……これか……?」
 呆然と呟く三上を見下ろし、水野は唇だけで笑った。
「そうだよ驚いた?俺だってこのくらい、やろうと思えばできるんだよ。アンタばっかりが俺を傷つけられるわけじゃない」
「………」


「言ったろ。『償う義務がある』って。アンタ何ももってなさそうだから、身体で返してもらうことにした」


「正気か」
「ああ正気だし本気だ。嫌ならアンタも全力で抵抗したほうがいい。でなきゃ」
 そこまで言って酷薄な笑みを浮かべて見下ろしてやっても、三上はまだ信じられないという目をしてその身を硬直させていた。
 体格差では五分、むしろ自分のほうが劣っているかもしれなかった。だが今の水野にはなぜか三上の抵抗を抑えきれるという根拠のない自信があった。三上は抵抗しない。直感でそう悟った。
 急所をいきなり握り込んでやると、三上が息を詰まらせた。
「や……ッ」
 やめろ、と言おうとしたのか、しかし三上の声は言葉として形を為さない。
 恐怖で身体が竦んだのか、でもそうは見えなかった。
 何かを躊躇う目。
 三上が何か言おうとして、言葉を呑み込んだのがわかった。
 この期に及んで何を躊躇う――水野はまた三上のことをバカだと思った。
「三上さん。あんたセックス初めて?」
 直截な言葉に三上が目を見開く。そこには微塵も余裕は見られなかった。
「アンタだったら女抱いたことくらいあるんだろうけどね。男にされるのはさすがに初めてだろ」


「俺のこと、忘れられないようにしてやるよ」



「一生」





「俺にはその権利、あるだろ?」
 その一言がおそろしいほどの効力を持っているのに水野は気づいてしまった。
 形ばかりだが、それでも水野の肩を押し返そうとしていた三上の手から力が抜ける。そのまま、腕はぱたりと横に落ちた。
 横向いて目を伏せる。その瞼が震えている。水野はそれに欲情した。自分でも信じられない心の動きだった。
「もう抵抗しないの?」
 蔑むように笑う。
 だが三上の反応はない。
「抵抗できるわけないよなあ?謝れば済むと思ってたのか?俺の進路、狂わせておいて」
 その一言にそれまで死んだようだった三上が目を見開いてこっちを見た。
「お前……、本当にうちに来るつもりだったのか……?」
 震える声。
 ――ああ、たまらない。
 水野は向けられる三上の瞳と、その声に陶然となる。
「そうだよ行くつもりだったよ、あんなことがなければな」
 微塵も思っていないことだった。
 だが、三上はその時、今日一番に傷ついた顔を見せた。初めて水野から語られた言葉に余程ショックを受けたようだ。水野は昂揚し、それから自身の吐き出した言葉に自分で傷ついていた。


 中途半端な気持ちで選んだユースで思うような成果をあげられていない今の己の現状を。
 自らの一言で思い出し、自らの一言で打ちのめされる。
 あんなことがなければ――言葉にした途端、それは呪詛のように水野の精神に絡みついた。
 あんなことがなければ、ユースに逃げ込むようなこともなく高校サッカーを選んだろうか、自分は。あるいは武蔵森に――?
 あんなことが……なければ……。
 理不尽な怒りは目の前の人物に向けられた。
 そうだこいつが悪い。すべて悪い。


「―――ッ」
 前触れもなく、いきなり後ろへと捻じ込んだ指先に、息を殺すような三上の悲鳴が漏れた。










 視界の中で三上の黒い髪が揺れていた。
 目の縁からこぼれ落ちた涙が汗と交じり合ってこめかみを流れてゆくさまを水野は目にした。
 涙は痛みによる生理的なもののようで、とくに水野の中の何かを動かすようなことはなかった。
 ただ、苦痛に歪むその表情は凶暴な衝動を煽り、水野をさらなる何かに掻き立てる。


 なにかかがぜんぶ、全部だめになってしまう感じがした。
 今まで自分が保ってきた矜持、繕ってきた体裁、守ってきたはずの何か。もうだめだ。どうせだめなら、巻き込んでやる。こいつも巻き込んで、いっしょにだめになってしまえばいい。


 俺はいつからこんな、こんなふうになってしまったんだろう。


 何かが胸を刺す、それは悲しみだった。歪んでしまったことへの悲しみだ。ただ自分を憐れむだけの。
 ただ悲しくて、水野は三上にひどいことをしながら涙をこぼしてしまいそうだった。


 俺をこんなふうにして。
 俺にこんなことさせて。
 俺にこんな目に遭わされて。
 目の前の相手が憎くて可哀想でどうしようもなかった。


 苦痛にか屈辱にか、その両方だろう、ずっと身体を震わせている三上は、だが歯を食いしばってほとんど声を上げなかった。






 




 性行為というよりほとんど暴行だった。三上のダメージはひどく、水野が身体を離しても蒼白な顔で横たわったまま、ぴくりとも動かない。一瞬死んでいるんじゃないかと思ったくらいだ。
 終わった途端、水野は部屋に立ち込める血と精液の匂いに初めて気づいた。
 最後まで三上は抵抗しなかった。その手は水野を押し返すことも、逆にまた当然ながら抱き縋るようなこともなかった。
 部屋は薄暗く、クーラーの稼動音だけが無闇に響いていた。水野はスイッチを消してクーラーを止める。身体中の汗は引き、濡れたシャツが気持ち悪かった。
 それを脱ぐ水野の背後で、掠れた声がした。

「今、何時……」
「八時」
「……帰っていいか」
「………」
「寮。……門限、あるんだ」

 ダメだと言えばどうするのだろう。
 ここから一歩も出るなと命令すれば、それも三上は受け入れるのだろうか。
 振り向くと三上はひどくゆっくりとした動作で自分の衣服を手に取り、袖を通しているところだった。押し倒された三上の下敷きになっていたそれは皺だらけで、きっと二人分の汗で湿っているに違いなかった。
 身体を動かすたびに堪えきれないよう詰めていた息を吐きながら、三上がようやく着衣を終える。
 水野はその間、黙ってそのようすを見つめていただけだった。


「水野」


 びくりとする。名前を呼ばれただけで大袈裟に肩を揺らした水野に、だが三上は気づいていないようだった。
 口許を抑えてわずかに俯いた姿勢で言う。
「悪い。……少し……吐きそうなんだけど……肩貸してくれ……」
 水野は頷いた。
 三上を支えて手洗いに連れていってやる。
 触れ合う肩に三上が怯えたようすはなかった。今はそれどころではないのだろう。衣服越しでも触れた肌が熱かったので、発熱しているかもしれない。普段気づきもしそうにないことに気づいている自分。怯えているのはむしろ自分のほうなのだと水野は悟った。三上が見せる表情、吐き出される息、それら反応すべてに神経がひどく研ぎ澄まされる。
 三上が苦しげに嘔吐するさまを水野は背後からじっと見つめていた。

 ――大会が終わった後でよかった。

 そう思ってすぐに水野は眉を寄せる。白々しい安堵だ。相手を害したいのなら大会前のほうがより効果的なはずだ。自分は目の前の相手を、三上を、傷つけたかったのだ。そうだろう?――ならば、安堵など……。
 行為が終わったあとも三上は水野に対する怒りを見せようとはしなかった。まるで当然であるかのように、その身に受けた傷をひとり抱えて静かに耐えている。



 水野は家の電話でタクシーを呼んだ。
 まもなくやってきたタクシーの後部座席に三上を押し込み、運転手には千円札を二枚ほど先渡ししておく。
 見るからに具合の悪そうな三上を目にして、また水野が同乗する気がないのを知ると運転手はあからさまにいやな顔をしたが、水野はそれでもタクシーには乗らなかった。
「武蔵森学園高等部男子寮まで」
 三上の代わりにそう言って、タクシーを送り出す。
 さっきさんざん吐いたから車内で吐くことはないだろう。もう三上にそんな体力は残っていない。



 タクシーはぼろぼろの三上を乗せて夏の薄い闇へと消えてゆく。
 だけど罪は残った。
 罪だけが残った。







 水野は今度こそ本当に涙をこぼし、家の前の路上でひとり、声を殺して泣き始めた。



















back



おまけの渋沢と三上。