愛しき子らへ





 黒羽快斗が――いや、怪盗キッドが傷ついたその身を沈めるベッドの前で彼を庇うようにして立ち塞がったのは、他でもない、この屋敷の真の主だった。
 それでも新一が構えた麻酔銃を下ろすことはない。
 立ち塞がる人物の背後から、早く浅い呼吸が聞こえてくる。その負傷が何よりの証拠。身につけたままらしい青いシャツ、白いスラックスも立派な物証となる。
 今こそ、すべてを暴く。暴かねばならない。
 焦燥が新一の胸を焼いてゆく。その感情は目の前の人物にそのまま向けられた。

「別にお前の邪魔をするつもりはないさ」

 優作はホールドアップの姿勢を取って、優雅に微笑んでみせる。そんな仕種が新一の神経を余計に逆撫ですることも知っての上に違いない。 
「ただ、親というものはどうしたって子どものことを想うものでね」
 新一は皮肉な笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、今そっからどかねえのはオレのためを想ってのことだと?」
「そういうことになるね」
 したり顔で肯く優作に、新一は静かにキレた。
「……勝手なことぬかすんじゃねえよ」

「新一」

 優作の目が見据えるものに変わった。新一はこの父親の目に弱かった。反射的に逃れそうになったが、なんとか踏みとどまって視線をそらさずにいる。
「お前、どうしたい?」
「は?」
 場違いなくらい間抜けな声をわざと上げてみせる。
「そいつは犯罪者なんだ。やるべきことは決まってるだろ」
「私はどうすべきか?ではなく、どうしたいか?と聞いているんだが」
「関係ねえ」
 短い一言で切り捨てる。
 そんな新一に対し、優作は聞き分けのない子どもを前にしたような表情をしてみせ、大きく溜め息をついた。

「では、私は彼の側につこう」

「なっ……!」
 新一は絶句した。酔狂は優作の十八番だが、仮にもかつて探偵を志した男が口にする台詞とは思えない。
 しかし優作は軽い調子で口にする。
「ハンデだよ、ハンデ。どう考えたって今は彼のほうが分が悪い」
「ゲームじゃねえんだぞ!これは!」
「そうかい? この世のすべては遊戯であると私は思っているがね」
 嘯く優作に、新一は激昂寸前だった。
 そんな新一の反応もすべて見通しているように、優作がにやりと声もなく笑った。
「どうしたね? さっそく犯人蔵匿罪で訴えてみるかい? お前なら実の親でも容赦はしないんだろう?」
 揶揄する口調。
 しかし、優作が「彼の側につく」というのなら、それは本気なのだ。
 こうなると誰より手強い。
 正直、勝てる気がしない。
 仮に優作の言うとおり自分が訴え出たところで、今の状況では証拠不十分で退けられるだろう。
 そもそもの社会的信用が父と己のどちらにあるかなど火を見るより明らかだった。

「せめて彼が本調子になるまでは待ってやりなさい」
 気遣うように、優作が背後をちらりと振り返る。新一の耳にもかすかに聞こえてくる呼吸音は未だ苦しげだ。
「それくらいの情けは必要だろう」
 諭す口調に、唇を噛み締めた。なぜ――なぜ、優作の言うことのほうが正しく聞こえるのだろう。
「そいつは窃盗犯なんだ。世間を騒がせて、警察を相手にふざけた真似しやがる愉快犯なんだよ。情けとか、そんなもの必要ねえんだ」
「窃盗犯だって愉快犯だって、人の子だろう?」
「何を……」
 一笑に付そうとした新一を、だが優作はさせてくれなかった。
「それはお前が誰よりもよくわかっているんじゃないのかい、新一?」
 優作の深い眼差しがこちらを見つめる。
「彼は、黒羽快――」
「言うなッ!」
 思わず悲鳴のような声を上げてしまう。


 認めたくない。けれど認めなくてはならない。


 いつものように犯行現場から少し離れた場所で対峙した。
 追い込んだのか、おびき寄せられたのか。
 廃ビル解体中の工事現場。
 偶然の事故により新一の頭上に落下してきた資材にいち早く気づいたのはキッドの方だった。
 自らの身を顧みず、咄嗟に新一を庇ったのもキッドだ。
『新一!』
 よく知る声で、自分の名を呼んで。
 事故の衝撃でシルクハットもモノクルも弾けとんだ。晒された素顔はもとより、その無謀さ、その無償の優しさこそが彼を他でもない黒羽快斗本人だと伝える。
 新一に覆い被さるようにして倒れ込んだ身体を震える手で抱く。
 思考が真っ白だった。
 キッドの――快斗の瞼がゆっくりと開いて、その瞳がこちらを見る。
 視線が絡む。
 二人とも声を失ったまま、ただ、互いを見つめていた。そうすることしかできなかった。


 その永遠に続くかと思われた時を打ち破ったのは父の声だった。
 どこから現れたのか、ずっと尾行していたのか、そもそもいつ帰国したのか――そうしたことを何ひとつ問う間も与えず、負傷したキッドを新一の目の前から奪うように攫い、それと知りながら、ここ工藤邸へ運び込んだのも優作だ。
 新一は入れ違いのように駆けつけた警察車両に保護され、病院での検査を断って、急ぎ自宅へ戻ってきた。
 必ず彼らはここにいると確信を抱きながら。
 果たしてその推測は間違っていなかった。
 ただ、こんな展開は予想だにしていなかったが――

「いい加減、その物騒なものをしまったらどうだ、新一」
 優作が新一の麻酔銃を指して言う。
「そもそも彼が怪我したのはお前を庇ってのことだろう?」
「……頼んでねえよ」
 語尾はおのずと小さくなる。
「いずれにせよ、お前が無傷でよかった。私は父親として彼に感謝しなくてはね」
 優作のそれが本心からのものであるとわかるからこそ、新一は言い返す言葉をますます失ってゆくのだった。
「そろそろいいかね。彼の治療をしたいんだが?」
 その一言で、自分の存在はこの男の歯牙にもかかっていないことを今さらながらに思い知る。

「勝手にしろッ」






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